モノクロの天秤

荒々 繁

第1話 プロローグ

 中三の春。

 水瀬 舞夜みなせ まやは鉄橋の上から桜並木を眺めていた。

 数年前までは、毎年、両親と一緒に歩いた桜並木。

 けれど五年前の春。両親は、交通事故で帰らぬ人となった。それからというもの、舞夜は親戚の家を転々とする日々を送っている。


 それでも、大好きだったこの桜並木だけは忘れられず、わざわざ電車を乗り継いで、二時間もかけてやって来た。


 満開の桜。かつてと変わらぬ風景。

 けれど、心は少しも晴れなかった。

 両親の笑顔を思い出すたび、胸の奥から、どうしようもなく込み上げてくるものがある。


「お父さん、お母さん……どうして私だけ、置いていったの……」


 あの日と変わらぬ景色が、かえって舞夜の胸を締めつけた。

 鉄橋の手すりに手をかけ、ふと川面を覗き込む。


 ──この高さから飛び降りたら、お父さんとお母さんの元に行けるのかな。


 そんなことばかりが頭をよぎる。

 もちろん、飛び降りる勇気なんてない。ただ、どうしようもなく心が苦しくて、自分でもどうすればいいのか分からなかった。


「君っ、早まっちゃダメだよ!!」


 突然、背後から大きな声が飛んできたかと思うと、横っ腹に衝撃が走り、舞夜はその場に倒れ込んだ。


「い、たた……っ」


 驚いて目を白黒させていると、視界に飛び込んできたのは、亜麻色の柔らかな髪。

 白の学ランに身を包んだ、一人の少年がこちらをのぞき込んでいた。


「まだ若いのに、自ら命を絶とうなんて、そんなこと……しちゃいけないよ」


 真剣な声。優しげな瞳。

 そして顔を上げたその少年は、思わず息を呑むほど整った顔立ちをしていた。まるで天使のように、美しい少年だった。


「あ、あの……」


 言葉を探している間に、舞夜はようやく事態を理解した。

 少年は勘違いをしていたのだ。舞夜が今まさに飛び降りようとしていた、と──。


「違うの……わたし、ただ、見ていただけで……!」


 慌てて否定すると、少年は目を瞬かせたあと、照れたように頬をかすかに赤らめて、頭を下げた。


「そっか。……ごめん、早とちりだったね。君の表情があまりにも寂しそうだったから、つい……」


 その言葉に、舞夜は思わず息を飲んだ。

 赤の他人からみてもそれほどまでに死にそうな顔をしていたのかと……。

 少年は、少し不器用ながらも、本気で心配してくれていた。


「よかったら、少し話さない?」


 そう言われるまま、舞夜は少年と一緒に、鉄橋の脇から伸びる小道を歩いた。

 たどり着いたのは、静かな河川敷。

 並んで腰を下ろしたときには、もう彼に自分の身の上を話し始めていた。


 五年前に両親を亡くしたこと。

 今は親戚の家を転々としていること。

 今日ここに来たのは、両親との思い出の桜並木を見るためだったこと。

 ただそれだけなのに、気持ちが整理できなくて、立ち止まってしまったこと──。


 少年は、頷きながら最後まで話を聞いてくれた。

 何も遮らず、何も否定せず、静かに、優しく。


「きっと、お父さんもお母さんも……君のことを、今でもちゃんと見てるよ」


 少年は、川面を見つめながらそう言った。


「つらいときに、ちゃんとつらいって言える人は、強いと思う。……だから、君は弱くなんかないよ」


 その一言に、胸の奥に溜まっていたものが少しだけ、ほどけた気がした。

 自分でも気づかないうちに、涙が頬をつたっていた。


「……ありがとう」


 ようやく口にしたその言葉に、少年はふわりと微笑んだ。


「僕は、赫白かくはく学園中等部の三年生、御影 蓮みかげ れん。……また、どこかで会えたら嬉しいな」


 その名前と制服を聞いて、舞夜ははっとした。

 赫白学園──全国でも有数の超名門校。その中等部の白い学ラン。

 彼が、そんな場所に通う人だと気づいたのは、そのときだった。


 風がそっと吹き、桜の花びらが二人の間を舞った。

 これが、舞夜の運命を静かに動かし始めた、最初の出会いだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る