Heavenfall ―天と地の終焉―

夜桜満

第1話 夢か現実か

 崩れ落ちた城の大広間に、俺は立っていた。

 たったひとりで、息を潜めるようにして。


 天井は半分以上が崩れ、剥き出しの石柱だけが空に伸びている。

 ひび割れた大理石の床に、月の光が落ちる。冷たい。どこまでも冷たい。


 壁に嵌められていたステンドグラスは割れ、その残骸から斜めに光が差し込む。

 かつては美しかっただろう“色”はもう残っていない。

 差し込むのは、蒼白で、色を失った“光の影”。まるで、灰色の霧のようだった。


 その光が、俺の体を淡く包み込む。


 音がない。風もない。

 声もなければ、命の気配すらしない。


 あるのは、ひたすらに広がる闇と沈黙と――凍てつくような空虚だけ。


(……ここは、どこだ。何があった……?)


 思考は靄の中を漂うようにぼんやりしていて、言葉にならない。

 現実なのか夢なのかすらわからない。わからないのに、ただ――怖かった。


 何かがいる。

 この闇の中に、“何か”がいる。


 そう思った瞬間だった。


 ステンドグラスの影の向こう。

 光と闇の境界から、黒い“何か”が、滲むように現れた。


「……っ!?」


 反射的に身を捻った。


 次の瞬間、胸の奥で“それ”が爆ぜた。


 ――ドクン。


 鋭く、冷たい“何か”が、真っ直ぐに心臓を貫いていた。

 音が聞こえた気がした。骨が砕け、肉が裂け、刃が心臓を引き裂く音。


 喉の奥から鉄の味が逆流し、肺が呼吸を拒む。

 酸素が足りない。世界が遠ざかる。視界がぐらつき、光が滲んでいく。


 痛み。寒さ。恐怖。

 言葉にならないすべてが、胸の奥で暴れていた。


 だけど感覚だけが、俺よりも先に答えを知っていた。


 ――刺された。心臓を、真っ直ぐに。


「……が、はっ……」


 喉の奥から洩れる声。

 血が口元からこぼれ落ちる。


 刃が抜ける感触。反射的に右手を伸ばす。

 掴もうとしたが、指に力が入らない。代わりに、自分の血がぬるりと掌を滑っていった。


 崩れ落ちそうな身体を支えることもできず、膝が床を打つ。

 冷たい石の感触だけが、妙に鮮明だった。


 そして、ふらつく視界の先。

 “そいつ”の顔が――ぼやけた光の中にはっきりと浮かび上がった。


 その顔を、俺は知っていた。

 どれだけ姿が変わっても、何があったとしても、絶対に見間違えるはずがない。


 俺の胸を刺したのは、かつて“優しかった”あの弟だった。


「……それが……お前の“答え”かよ、桃哉……」


 吐き出した言葉の最後が、白く弾ける。

 世界が、音もなく崩れ去っていく――


 ◇ ◇ ◇


「夜桜。……夜桜、起きろ。……お前、また寝てたな」


 誰かの声と、乾いたチョークの音が耳に届いた。

 教室のざわめきが、遠くからゆっくりと押し寄せてくる。


 意識が現実に戻ってきた頃には、すでに周囲の視線がこちらに向いていた。


 顔を上げると、黒板の前で腕を組んだ教師が、やれやれといった様子で眉をひそめている。


「夢の世界はどうだった? こっちは現実だぞ、夜桜」


 クスクスと笑うクラスメイトの声。

 椅子の軋む音。窓から差し込む柔らかな午後の日差し。

 すべてが“日常”そのものだった。


 ……だけど、俺――夜桜桃真よざくらとうまは、すぐには現実に馴染めなかった。


(……学校……古典の時間か)


 まるで透明な膜越しに世界を見ているような感覚。

 目は開いていても、現実が遠い。

 夢が、あまりにもリアルすぎた。


 俺は無意識に胸元に手を当てた。


 そこに傷はない。痛みもない。血も流れていない。

 けれど、あの刃が貫いた感覚だけが、胸の奥に焼き付いていた。

 残滓のように。呪いのように。


 夢だった。

 ――夢だったはずなのに。


「……桃哉……」


 漏れた声は、ごく小さな呟きのはずだった。


 だけど、その名を聞き取ったのか、隣の席の少年がこちらを振り返った。


「ん? どうした、桃真。まだ寝ぼけてんの? すげー変な顔してるぞ」


 変わらない声。

 変わらない笑顔。

 その眼差しは、夢で俺を刺した“あの瞳”とはまるで違っていた。


 ――俺の弟、桃哉。

 いつも通り、平和な午後の教室で笑っている。


 でも、俺の心だけが、まだ夢の続きを見ていた。


 あれは何だったんだ。

 ただの夢か。それとも――現実の“予兆”か。


 わからない。けれど確かに、あのとき俺は“殺された”。

 弟の手で。優しかった、あの手で。


 時計の針が、コツ、コツと音を刻む。


 俺は胸元に手を当てたまま、ふと、隣に座る弟の背中をじっと見つめていた。


 ――何も変わらないこの日常が、ゆっくりと崩れていくような、そんな予感を抱きながら。



 ✳︎✳︎✳︎


 五限目のチャイムが鳴り終わる頃、教室には一斉に活気が戻っていた。


 部活に向かう者、急いで帰る者。

 ざわめきと笑い声が交錯する中、夜桜桃真は一人、静かに帰り支度を進めていた。


 机に突っ伏していた腕を持ち上げ、鞄に教科書を詰める。

 その動きにはどこか気怠さがあった。

 夢の余韻が、まだ心の奥を濁らせている。


「桃哉、お前も帰るだろ? 早く準備しろ」


 隣の席で友人と談笑していた弟――桃哉とうやに声をかける。

 桃哉は「あいよ」と軽く手を上げ、友人に適当に別れを告げた。


「まったく……俺がいないと帰れないんだから、桃真は〜。で、夕飯何にする?」

「……お前がいなくても帰れる」

「いやいや、兄貴が一人で帰ったら心配じゃん。事故とか、変な夢にまた引っ張られそうだし」


 他愛のないやり取りを交わしながら、二人は教室を出た。


 廊下の喧騒は教室よりも一段階うるさく、それは“高校生活”という舞台の雑踏そのものだった。

 すれ違う友人たちに軽く会釈を返しつつ、二人は昇降口を抜け、夕暮れに染まる校門を越える。


 空は茜色に染まり、電線の上で一羽のカラスが鳴いた。


「……なあ、さっきから顔色悪いよ。何かあった?」


 ふいに桃哉が尋ねる。桃真の顔を覗き込みながら。


 その瞬間、夢の中で見た“あの顔”が、まるで閃光のように脳裏を過った。

 胸の奥が、ずきりと痛む。

 桃真は目を逸らし、声を低く落とす。


「……夢見が、悪かっただけだ」

「二限目からずっと、俺の顔まともに見てないよね。それってさ……もしかして、夢の中で俺が何かした?」


 核心を突くような言葉に、桃真は苦笑するように息を吐く。


 そして、迷いの末、口を開いた。


「お前に……胸を刺されたんだ」


 一瞬、沈黙。

 次に返ってきたのは――弟の大笑いだった。


「あっははっ! なにそれ、物騒すぎ! 俺が兄貴刺すとか、ぜっったいないって! 夢でよかったな!」

「……わかってる。けど、あまりにもリアルでさ……」

「夢なんてそんなもんだよ。深く考えすぎない方がいいって」


 桃哉はそう言いながら、笑いすぎた目尻を指で拭った。

 ――笑いすぎたのか?

 それとも、別の何かが、そこにあるのか。


 そのとき、不意に声の調子が変わる。


「でも俺はさ、本気で思ってるんだよ」


 真っ直ぐに、静かに。


「俺は絶対に、桃真を裏切らない。見捨てたりもしないよ。……たとえ、この世界が壊れたとしても」

「……は?」


 その言葉は、冗談にしては重すぎた。

 どこか、祈りにも似た響きだった。


 弟は昔から言っていた。

 “兄を守るのは自分だ”と。


 その異様なまでの執着は――桃哉が持つ、ある“能力”のせいだと、桃真は薄々わかっていた。


(……そうだな。頼むよ)


 そう言いかけた、そのときだった。


 ――目の前に、“何か”が現れた。


 黒い外套に身を包み、フードを深く被った男。

 その姿は、まるでどこか別の世界から切り取られてきたような異質さを放っていた。


 無言で立ち尽くすその男に、二人は本能的に数歩後退する。


 空気が変わった。冷たい。張りつめた冬の空気のように。


「君が……夜桜桃真かい?」


 フードの奥から、月のように白い“笑み”が浮かぶ。

 目ではない。唇だけが笑っていた。こちらを見ていた。


「……誰だ、お前は」

「やっと……やっと会えたね、桃真くん。夢で見たんだ。神のように美しい君の姿を。僕はずっと、その“断片”を探してきた」


 ぞわり、と背筋を冷たいものが這う。


 桃哉が咄嗟に、桃真の前に立つ。

 そして、耳元で囁いた。


「兄貴……先に、帰って」


 その声は静かだった。だが、決意に満ちていた。


 だが男は構わず言い放つ。


「君には用はないよ、夜桜桃哉。“創造と知恵”……所詮は模造にすぎない。だけど君の兄――夜桜桃真は、“本物”だ」


 次の瞬間、男が動いた。


 距離を一瞬で詰め、外套の中から銀色のメスを抜き放つ。

 振るわれた一閃。


「っ……! 形よ、生まれよ。我が想のままに――物質創造ジェネシス!」


 桃哉の掌に、ナイフが生まれる。

 咄嗟に受け止めたその一撃に、靴裏がアスファルトを擦る。


 ギィン、と甲高い金属音。


「逃げて、桃真!!」


 弟の叫びに、桃真の足が自然と動いた。

 走る。後ろを振り返らずに。


 背後で響く金属のぶつかる音、靴音、誰かの怒声。

 すべてが遠ざかっていく中で、桃真は思っていた。


(……まただ。俺は、守られてばかりだ――)


 そんな事を考えながらひたすら夜桜は走っていく。

 振り返る余裕などなかった。ただ、ひたすら家へ向かって――あらかじめ張られていた結界の中へ、無我夢中で逃げ込もうとしていた。


 けれど、ある疑問がその足を止める。


(……なんで、俺は逃げてるんだ?)


 弟にできて、自分にできない理由はない。

 そもそも、なぜ自分が“能力者ではない”と、当たり前のように思い込んでいたのか。


(俺は……本当に、ただの人間か?)


 胸の奥に湧き上がる衝動に突き動かされるように、桃真は踵を返す。

 弟のもとへ戻ろうと、進路を変えたそのときだった。


「おいおい、なんでそんなに必死に逃げてんだ、テメェは」


 低く、獣じみた声が前方から響いた。


 視線を上げた先。

 夕焼けに染まる街路の中に、男がひとり――こちらを見下ろすように立っていた。


 胸元の開いた黒の戦装束。

 燃えるように逆立つ赤髪。

 そして右目を裂く、三本の深い刀傷。


 その姿だけでも異様だったが、何より不気味だったのは――男からまったく音がしないことだった。

 呼吸も、衣擦れも、足音すらも。あるのは圧だけ。まるで“生きた殺気”の塊のような存在感だった。


「……お前、人間じゃないな」

「まぁな。……でも今日は殺しに来たわけじゃねぇ。ただ、話に――」


 最後まで言わせなかった。


 桃真は一瞬で距離を詰め、腹へ渾身のストレートを叩き込んでいた。


 ドン、と重い衝撃音が鳴る。


 男の身体がのけぞり、鮮血を吐きながら膝をついた。


「……てめぇ、話は最後まで聞けっての……」


 呻く男の言葉も無視し、桃真は自分の拳を見下ろした。

 痛みも、熱も、ただの殴打とは違う感触が残っている。


(……今の、ただの拳じゃない。これは……“魂”に触れてた)


 理解と同時に、確信が生まれる。


(やっぱり……俺にもある。力が。俺は、“持ってる”)


 再び拳を握り直し、桃真は踏み込む。

 だが、戦いに慣れた獣が、能力に目覚めたばかりの“赤子”に負けるはずもなかった。


 次の瞬間、男が身体をひねり、軽く攻撃を躱す。

 無防備になった夜桜の右鎖骨へ鋭い歯が突き立った。


「……っがあああッ!!」


 肉ではなく、魂ごと噛み千切られるような痛み。

 悲鳴が漏れ、血が噴き出し、足元を濡らしていく。


 桃真は必死に振りほどいたが、鎖骨部には深々と噛み痕が刻まれていた。

 男は、笑っていた。


「ハハッ、いい叫びだ」


 血で濡れた舌を舐め、ゆっくりと立ち上がる。


「その痕……ってやつだ。これでお前の居場所は、世界を超えてもわかる。逃げてもムダだぜ?」


 そう言うと、男は指先を鋭く振るった。


 空間が裂ける。

 黒い“門”が現れる。

 男はそれをくぐり、まるで最初から存在しなかったかのように、音もなく姿を消した。


 夕焼けの街に、血の匂いだけが残った。


 桃真は肩を押さえ、痛みに顔を歪めながら、ふらつく足で立ち上がろうとする。

 だが――背後に、もうひとつの影が忍び寄っていた。


 次の瞬間。

 首筋に、激しい衝撃。


 視界がグラリと揺れ、足が崩れる。

 膝がつき、手がつき、アスファルトの地面が近づいてくる。


(ああ……これが、“終わり”か)


 意識が、黒い水に沈んでいく。

 思考が断ち切られる寸前、桃真はただひとつの確信を抱いた。


(……もう戻れない。俺の日常は、完全に終わった)


 その倒れた身体を、塀の上から見下ろしている影があった――まるで、それこそが“始まり”だと言わんばかりに。




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 ただ平和という

 夢の中で

 剣を捨てただけだった

 ──夜桜桃真

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