月下の亡霊
夜桜満
第1話 海賊王の亡霊
人は、何かを得ようとすれば、必ず何かを失う。
それが、この海に刻まれた絶対の掟だ。
力を望めば、五感を奪われる。
愛を求めれば、その温もりを二度と感じられなくなる。
夜の海は、世界そのものが息を潜めたかのように沈黙していた。
寄せては返す波すらなく、鏡のような海面が満月を映す。
闇に囲まれた夜の海を青年は小舟を走らせ立っていた。
黒衣の裾を夜風が揺らす。だが、その胸には――鼓動がない。
生者でもなく、死者でもない。
ただの影。
名をノヴァ・ヴェルクレイン。
かつて“海賊王”の息子と呼ばれた男。
今はただ、月下の亡霊と畏れられる存在。
どうして鼓動を失ったのか。
なぜ亡霊と呼ばれるのか。
その真実を知る者は、どこにもいない。
(……人は最初に声を忘れる。次に顔を忘れる。記憶に残っているのは、船の焼ける匂いと父親の背中の影だけか)
彼は心の中で密かに思いにふけ、これから降り立つ島へと目線を移し、静かに座り込みオールを回収し、己の能力で小舟を島へと押し流していく。
夜風が頬を撫でた。
その冷たさに揺さぶられ、ノヴァは目を開く。
視界いっぱいに散る星々。時が経ったことを知り、器用に彼は小船を洞窟内に止め見渡した。
ここはヴェルミーナ――昼間は海兵と貴族が溢れ、海賊にとっては死地と化す街。夜の帳が下りている今だけが、わずかな隙だった。
岩場に降り立つと、足裏に固い大地の感触が広がる。
「……久しぶりの地面だな」
思わずこぼれた声に、口元がわずかに緩む。だが月光が差し込むと同時に、右目の火傷痕が浮かび上がった。
――父と共に焼かれた夜の記憶。絶望は、決して癒えぬ刻印となって彼を照らす。
「リアム、ヴァルター……俺はあんたらを許さない。七つの海を越え、この名を伝説にしてみせる」
「何を一人でぶつぶつと」
不意の声に振り返る。
洞窟の奥で月光に照らされ、大剣を背負った白服の男が座っていた。
一目でわかる。海兵――それも、脱走兵だ。
「見りゃわかるだろ。海軍から逃げてきた」
男はにやりと笑った。
ノヴァは無言で歩き出す。だが背中に軽口が追ってくる。
「へぇ、海賊がこんな場所に来るとはな。死にに来たんじゃねぇよな?」
「……詮索はするな」
「おもしれぇやつだ」
男は立ち上がり、当然のように後をついてくる。ノヴァの眉がわずかに動いた。
「目的地は?」
「は?」
「この島なら俺の方が詳しい。案内してやる」
本当に信用できるのか――。
ノヴァが目を細めると、男は乾いた笑いを漏らし、手の甲の包帯をほどいた。
そこに刻まれているはずの“海兵の印”――三叉槍に絡む鎖の刺青は、裂かれ血に濡れていた。
「海軍としての誇りを捨てた。俺はもう秩序なんかに縛られちゃいない」
どんなことがあっても海兵はその印を傷つけない。ポセイドンの加護と地位を意味するものだからだ。
だが目の前の男は、痛みを感じていないかのように布を巻き直した。
「……なぜ抜けた」
「うーん。まぁ、今の時代海兵は地位も名誉も思いのまま。それはそうだ。けど、そんなのに飽きて自由に生きたいって思ったんだよ」
月光を受けた男の表情が沈む。
滴る水音だけが洞窟に響いた。
「海賊が悪で、海軍が正義……そんな時代は終わった。今は――強けりゃ正義、弱けりゃ悪。それだけだ。けどそんな時代に自由に生きたいって思ったんだ」
ノヴァは黙って彼を見据えた。男は歯で布を結び直し、にやりと笑う。
「で、どうする? 一人で歩くよりはマシだろ。俺はこの街の抜け道を知ってる」
「……奪われた愛船を取り戻す」
ノヴァの声に、わずかな悔しさが滲んだ。海賊にとって船は命。奪われたままでは笑い者だ。
「お前、海賊歴は?」
「……生まれてからずっと海にいる。二十一年だ」
「二十一? マジか。もっとガキかと思ってたぜ。俺の一個下か……童顔の亡霊ってとこか」
失礼な物言いにノヴァは睨みをきかせる。
「……名前は?」
「カディン・リベルト。自由を謳歌する戦士だ」
「いい名だ」
「で、あんたは?」
一瞬のためらいののち、ノヴァは真っ直ぐに彼を見据えて答える。
「ノヴァ=ヴェルクレイン。気軽にノヴァと呼べ」
ヴェルクレインの名に、カディンの目が見開かれた。笑みが消え、息を呑む。
「お前、父親の名前は?」
洞窟に緊張が張り詰める。ノヴァは慎重に、だがはっきりと告げた。
「──ゼヴァルド・ヴェルクレインだ」
かつて七つの海を制し、自由のために戦い、海に愛され、裏切りによって命を落とした海賊王の名。
ノヴァにはその大きな背中の影しか残っていない。
「ゼヴァルド……海賊王か」
すでに十年が過ぎた。新たな時代が始まり、伝説も色褪せる。
だが目の前の男は父を覚えていた。それがノヴァには不思議なほど嬉しかった。
「あぁ」
「まじか……今日出会ったやつが海賊王の息子って……」
「嫌か?」
「いや。むしろ、お前の船に乗りてぇと思った」
カディンはくしゃっと笑った。その笑顔は、ノヴァには眩しすぎた。
十年もの間、彼には仲間も友もいなかった。だからどう返せばいいのか分からない。
「なんだよ。乗せてくれねぇのか? 海賊王の息子の船に、俺は」
答えは出なかった。ただ、ないはずの心臓が熱を帯びるのをノヴァは感じていた。
ぎこちなく笑みを浮かべ、頷く。
──沈みかけの舟だが、まだ誰かを乗せられる。
思いながらノヴァは歩き出すカディンの後に続く。
洞窟を抜け、夜の海風を背に受けながら二人は海岸線を歩いていた。
海兵の監視が少ないこの道を選んだのは、カディンの案内によるものだ。
ノヴァはなお警戒を解かず、前を行く男の背を睨むように追いかけていた。
「そんなに構えるなって。この時間は見張りの交代時刻だ。警備が一瞬だけ手薄になる」
「それでいいのか? ここは貴族が住む場所だろう」
「まあな。……でも、俺らだって結局“人間”なんだよ。たとえポセイドンの加護があったとしてもな」
ノヴァは黙したまま歩を進める。胸にはずっと拭えない疑問が渦巻いていた。
カリプソの“祝福”と、ポセイドンの“加護”。
どちらも“力”を与える存在でありながら、その本質は何が違うのか。
「なぁ……ポセイドンの加護って、代償があるのか?」
石段を登りながらの問いに、カディンの足が一瞬止まった。
過去を抉るような言葉だったのか、振り返らず低く答える。
「……ポセイドンは、女神カリプソと違って“海兵を愛してはいない”。ただ、海を汚す海賊を消すために力を貸しているだけだ」
そして皮肉めいた笑みを口元に浮かべる。
「だからその加護には“愛”がない。その代わり、力を得た者は五感のうちどれかを失う」
カディンは自嘲するように続けた。
「ちなみに俺は“痛覚”だ。いくら斬られても実感がない。便利なようで、不便なもんだろ?」
その言葉にノヴァの脳裏をかすめたのは、“心を動かさぬ男”の姿だった。
父の面影に重なる、冷たく揺らがぬ影。
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