狼の住まう大地①



 御前試合で華々しい勝利を勝ち取った翌々日の話だ。


 宿舎しゅくしゃの食堂で朝食を一通り受け取った琴音ことねは、空いている隅の席に座った。


 特務隊の宿舎には食堂も併設へいせつされており、人智じんちおよばぬ者のための食事が用意されている。


 琴音は見た目こそ特異な新緑しんりょくの瞳と白雪しらゆきの髪を持つが、食事に関しては普通の人間と大差ない。時折、特務隊の食堂から抜け出して市井の店にも行くが、宿舎で休みを満喫まんきつする際には特務隊の食堂を利用することが多かった。


 白湯さゆと白米、味噌汁と鮭が用意されたぜんを前に手を合わせた。副菜はほうれん草の煮浸しだ。


 まずは具沢山の味噌汁に手を伸ばしてすすった時、琴音の目の前に伝令官でんれいかんがやって来て「久我大尉くがたいい、召集命令です」と色のない声音で淡々と言った。「は……?」と思わず聞き返してしまい、持っていた箸を落としてしまった琴音は悪くないはずだ。


 琴音の脳内に浮かんだのは『休暇』『命令』『急用』の三つであり、それを繋ぎ合わせるのは瞬き《またたき》よりも早かった。


 休暇中であっても、軍人は命令が絶対。通常の軍人よりもかなり自由な特務隊員とはいえ、召集命令は無視出来ない。そして、わざわざ伝令官を寄越したということは急用に違いない。


 上司が琴音を命令で呼び出すなんて余程の事態だ。実際、招集命令は片手で足りる回数しか経験がなかった。


 琴音は伝令官に礼を伝えるとすぐさま新しい箸を貰った。そして、泣く泣く朝食をかきこんだ。ゆっくり食事をしている時間は全くない。


 食べ終わってすぐに膳を下げ、料理番に礼を伝えた後自室へと足早に向かった。


 自室に入ると着ていたよれたシャツと生地の薄くなったズボンを脱ぎ捨てて、軍服に袖を通した。式典等に使う軍服は微かに樟脳しょうのうのにおいが残っていたが、それ以上に良い一張羅いっちょうらがないためそのまま着ていくことにした。


 「こんなことなら、干しておけば良かったよ」と自分の用意の悪さに悪態をつきながらベルトを着け、愛刀を腰に差す。姿見の前で髪の毛をまとめ味気ない黒一色の紐で縛る。


 それが終わるとすぐさま姿見で自身の姿を確認する。一糸乱いっしみだれぬ自身の姿に満足した後、自室を飛び出した。


 階段を二段飛ばしで降り、宿舎を飛び出て指定された本部へと向かう途中で二度、人とぶつかったが、琴音の様子に事情を察したのか軽い謝罪で許してくれた。


 本部の建物に入ると案内役の軍人が既に待っており、琴音を見ると小さく礼をする。


 本部の建物は元々社交場しゃこうばとして活用されていた建物だった。軍部としては扱いづらい特務隊を追いやるために仮の本部として買い上げられたが、その後移転されることもなく今日にいたるまで使われている。


 大きな玄関は二階まで天井が吹き抜けており、ダンスホールが建物の大部分を占めている。付け加えると、小さな楽団のためのスペースも併設されている豪奢ごうしゃっぷりだ。


 休憩室として使われたいくつかの部屋を造築したり、壁をぶち抜いたりして応接間や会議室、執務室を作ったが、部屋数は圧倒的に足りていない。


 琴音は門兵に自分の名を告げるまでもなく、建物への入場が許された。どうやら上司が手を回していたらしく、わずらわしい手続きをせずに済んだ。


 建物に入ると案内人に応接間まで案内され「総隊長そうたいちょうが中でお待ちです」と告げた。


 社交場の休憩室の特性か、やけに分厚い扉では中の様子をうかがい知ることは出来なさそうだった。この部屋が何に使われていたかは考えないでおこう。


 琴音は深呼吸をして、帽子を被り直し「久我琴音大尉です。入室致します」と声をかけた。


「入りなさい」


 柔らかな青年の声で入室の許可が出たため、琴音は「失礼します」と言って部屋の中へと入った。


 命令内容から察するに無視できない身分の客人が突然現れたのだろう、と予測はしていたが、応接室に入った途端、琴音は内心首を傾げた。


 上司である夕紀人ゆきひとと屈強な体の青年が二人いた。


 青年二人の身なりはよく見積もっても中流階級と言ったところで、特務隊員を呼びつけられるような身分には見えない。失礼にならない程度に観察すると腰から馬鞭ばむちらしきものを下げていた。


 ーー御者か? それとも早馬か?



「休暇中に呼び立ててすまなかったな、久我大尉」

「いいえ! ご命令とあらば喜んで参上いたします」



 普段はしない定例の挨拶を済ませた後、夕紀人は青年二人を「伊達だて家からの使者殿だ」と紹介した。


 「お迎えにあがりました、久我大尉」とうやうやしく礼をした御者の青年二人に、琴音は舌打ちをしたくなった。脳内で休日が羽ばたいて消えていく。


 伊達家の御者曰く、切迫せっぱくした状況とのこと。いち早く琴音の助力じょりょくいたいため、こうして御者と馬車を派遣してきたらしい。


 迎えに来た御者は御者とは呼べないほど鍛え上げられた体をした青年二人。御者というよりも兵士のそれだった。御者として派遣されてはいるが、伊達家お抱えの私兵なのだろう。そうでなければ、御者にも戦闘力を求めているのかもしれない。


 隣国と小競り合いをしている辺境伯らしい人材の選択だと言える。


 任務地である辺境へ向かう方法は馬車か徒歩の二択だ。近代化が進み、列車が走るようにはなったが、まだまだ国の主流は原始的なもの。徒歩だけでは特務隊隊員はやれないため、琴音は勿論馬に乗ることができる。むしろ、乗馬は得意な部類だ。


 今回も馬で任務地まで行く予定だったが、伊達家から送迎の馬車が用意されている以上、従うしかない。

 一人で辺境まで駆けたほうが楽なのだが、相手側の要望には添わなければならないのだ。


 つまり、伊達家側は琴音の単独行動を一切許すつもりはないらしい。


 御者の二名は礼儀正しく丁寧に琴音に説明をし、同行を求めているが、表情は「こいつが本当に役に立つのか」と言わんばかりだ。


 琴音は頭の中で苛立ちをこっそり募らせた。



「久我殿の用意が済み次第、すぐに辺境へ向かいたいのですが、よろしいでしょうか」



 琴音はチラリと夕紀人に視線を送って意見を求めた。わかりきっていたことだが、夕紀人はにっこり笑って「期待している」と言う。


 つまり、行ってこい、と言うことだ。

 いつものことではあるが、他人事だと思って無茶を言ってくれる。


 琴音は渋々了承し、荷物の用意をするために宿舎に戻る旨を伝えた。すると御者の二人は「当主から道中はこちらの用意した服を着ていただきたい」と申し出があった。


 色々と要望が多いらしい。



「何故でしょう」

「我が領地に帝都の軍人が、それも特務隊員が入ったとなれば大事になります。此度は知られず事をおさめたいのです。領地内で軍服での活動はお止め致しません」

「秘密裏に事件を解決するのが仕事ならば、特務隊に依頼を出すのは悪手ですけれど、よろしいのですか?」


 「ご理解いただきたく」と付け加えた御者に琴音は首を縦に振らざるをえなかった。


 すぐに戻ると伝えて、琴音は本部を飛び出して宿舎への道を蜻蛉とんぼ返りする。つい最近まで長期任務に出ていたおかげで荷物の用意は既に終わっており、日常使いするために出した物を鞄に詰めるだけであっさり終わる。


 事実に戻ってすることと言えば兄に任務に出かける旨を知らせる手紙を書くことくらいだ。それが終わるとすぐ鞄と書き終えた手紙を持って自室から出る。使用人をつかまえて手紙を出すように依頼した後、御者達が待つ本部へとまた戻った。


これをわずか半刻1時間で終わらせる羽目になり、本部に戻った頃には疲れ果てていた。


 そこからすぐさま着替えさせられ迎えの馬車に乗せられーー流れに身を任せているうちに、琴音は馬車が走り出す頃には気を失うように眠っていた。連日の徹夜の影響が抜けきっていないままの出発による気苦労で限界だった。


 次に目を覚ますと、既に帝都からは遠く離れていた。


 そこから更に更に馬車に揺られ続けた。


 御者は道中、気味が悪くなるほどの丁寧さで琴音を扱った。琴音が伯爵令嬢と知った故の行動なのか、思惑おもわくがあるのかわからず、一切気を抜くことができなかった。


 任務で気を抜いたことなどないが、休息が一切ない状況は精神的にも肉体的にもかなり辛い。今回は骨の折れる任務になりそうだ、と頭を抱えたくなった。


 道中で休憩をはさみつつ、たどり着いた頃には苛立ちを覚える程度には疲れていたが、その苛立ちも伊達家の街並みを見た途端、全て霧のように消えていった。


 伊達家の領地は琴音が思っていたよりも遥かに栄えていたからだ。


 辺境というのも隣国から攻められる危険性があると同時に、貿易がしやすい利点もある。様々な商品が溢れれば溢れるほど活気づくものなのだろう。


 隣国のカトレア王国は様々な宝石が産出する世界有数の宝飾王国だ。帝都で購入するよりも安価で、エメラルドが購入出来ただろうと思うと胃がキリキリと傷んだ。


 現在の久我家の財政状況では流行を先に知っていたとしても、手に入れられるはずがない。加えて、仕事で来ている以上私的な用事で買物をするわけにもいかないだろう。勝手に動くのは心象を悪くするだけでよろしくない。


 ただでさえ琴音の容姿は特異で目立つ。今ここで誰かの記憶に残るのは少々まずい。


 馬車が伊達家の別邸がある町のひとつ前に差し掛かったところ、何故か馬車が急に止まった。しばらくして言い争うような声が聞こえてきて、琴音は刀を握って窓から外の様子をうかがう。


 馬車の周辺は何も問題はなさそうだが、御者と治安維持を担っているらしき兵士とせわしなく話しているのが目に入った。何かしらのトラブルが起こって道が封鎖された、というところだろうか。


 必ずしも武力が必要な場面ではないと判断して琴音は刀を外から見えにくい位置に置いた。


 琴音はほんの少しの間逡巡した後、馬車の扉を開けてステップを降りた。自分が出て行ったほうが早く解決するだろうと踏んでのことだった。


 わずかな異変も出来る限り見逃さず情報収集をしたい任務的な意味合い理由が一つ。もう一つは自分が出ていくことで問題がすぐさま解決するかもしれない貴族的な理由が一つ。日輪国は良くも悪くも貴族社会だ。


 馬車から降りてきた琴音の姿を見て御者は目を丸くした。



「は、おい、あんた! ではなくて、お嬢様! 危険ですので馬車にお戻りください!」



 御者の片方が慌てて琴音を馬車へ戻そうとしたが、琴音はその静止を無視して治安維持を担っている兵士に声をかけた。



「ご機嫌よう。当家の御者が何かご無礼でもいたしましたか?」



 穏やかかつ清楚なお嬢様を演じ、スカートを軽くつまんで礼をする。貴族の中にはこうした場合、兵士を怒鳴りつけて無理を押し通す者が多い。丁寧な対応をする者は少ない。


 こう言った場面では高圧系な態度をとるよりも丁寧に対応するほうが効果的だ。


 実際、声をかけられた兵士はどもって「い、いえ、実は……」と事情を話そうと口を開きかけた。



「お嬢様、本邸へ向かう道に獣が出たようで、道が封鎖されたのです。討伐されるまでは、この町の宿でお待ちになれるのはいかがでしょうか」



 兵士の言葉をさえぎって御者がまくしたてた。どうやら隠したい事情があるらしく、これ以上琴音を兵士に接触されたくないらしい。「そうですね……」と琴音は頷き、深く追求しないことにする。そう簡単に口を割らないことは道中の数少ない会話で察せられていたからだ。


 兵士に礼を伝えて、琴音は馬車の中へと戻る、動きやすさのかけらもない実用性皆無の踵の高い靴を脱いで、編み上げブーツに履き替えて刀を握る。宿に行くのであれば刀をそのまま持ち歩くのはまずいと考え、浅黄色あさぎいろの袋に入れて口を縛った。


 「早々に面倒なことになったね」と声に出さずに言葉だけを舌の上で転がす。


 帝都ではさほど多くないが、帝都を一歩外に出れば獣による被害はかなり多い。近代化がどれほど進もうとも、自然との共生は難しい問題だ。作物の被害は毎年恒例と言ってもいいほど、人の死傷事件も複数起こっている。


 御者も混乱を避けるために獣とだけ伝えて詳しい事情を話さないことには、大きな違和感はない。ただ――琴音の立場を考えればすべてがひっくり返るだろう。誰よりも状況を詳しく話すべき相手のはずだ。


 伊達家からの任務はいまだわからず、獣の件も関わりがあるかもしれない。加えて相手の痛い腹を知っておけば優位に話を進められるかもしれなかった。情報はいくらあってもいい。


 琴音は自分の髪を軽くつまんで小さく息を吐く。この白髪のままでは人目をひいてしまう。


 近代化が進んだ現在では珍しいが、百年ほど前までは人が人外が交わることも珍しくなかった。夜が更ければ人ではない摩訶不思議まかふしぎな存在を見ることができたからだ。話し相手になってもらったと語るものも大勢いたものだ。


 友になり、恋に落ち、愛をはぐくむこともある。その子孫の一人が琴音であり、帝都でも時折、琴音と同じ存在に会うこともあった。


 いつの時代、どのようなきっかけで人外と人の子供が生まれたのかはわからない。何せ琴音がうまれるよりもはるか昔から人外と人の恋愛物語は存在しているのだから。


 琴音の生みの親と琴音は会ったことがなかった。琴音が物心つく前に死んでしまったらしく琴音は帝都付近にある貧民街で育った。琴音が両親から受け継いでいるのは白雪の髪と新緑の瞳、そして、人並外れた身体能力だけである。


 そのほかの特徴は他者と何一つ変わらず、物珍しさが一切ない没個性だ。


 目立つ容姿――髪だけ見れば雪女に似ているがーー琴音を琴音だと知らぬものからしてみれば、髪と瞳を隠してしまえば正体を見破るのは難しい。


 ただ生きるだけならば厄介な容姿だが、目立つ要素を隠してしまえば潜入調査をする際には存外役に立つものだ。


 町中に白雪の髪を持つ女性が軍服を身に纏って歩いていれば嫌でも記憶に残ってしまうが、黒髪黒目のどこにでもいる平凡な女性が平凡な服を着て歩いていても記憶には残らないものだ。


 使えるものは使え、生きるためにはそうするべきだ。



「お嬢様、馬車を出します」



 御者は努めて冷静に声をかけたつもりだったのだろうが、動揺からか琴音の返事を聞くことなく馬車を出発させた。数分後、馬車が止まり、御者から馬車から降りるように伝えられた。


 馬車のステップを降りて最初に目に入ったものに目を丸くした。



「……宿と聞いていたのですが」

「本日お泊りいただく宿でございます」



 黒一色で作られた貴族然とした邸宅を人は宿と呼ばないのでは? と尋ねたくなった。どこの世界に家紋をあしらった旗がある貴族の邸宅を宿として営業するものがいるというのか。宿に家紋をあしらった旗はないはずだが。


 久我の本邸よりも数倍大きく、手入れが行き届いているとわかる邸宅が宿なわけがない。


 「宿ですか」と琴音が再び問うと「宿でございます」と返される。



「明らかに伊達辺境伯さまの別邸とお見受けするのですが」

「こちらは別邸の中でも先代の奥様が大変お気に入りだった別邸でございます」



 ――宿って言ったじゃないか。


 琴音が何を言おうかと考えあぐねていると玄関から琴音のほうへ向かってくる執事の姿が見えた。執事は琴音の側までやってくると恭しく礼をした。琴音も倣って一礼する。顔を上げる途中、かすかな悪意が感ぜられて視線だけでその主を探す。



「ようこそおいでくださいました。久我伯爵令嬢をお迎えでき、大変うれしく思っております」

「突然のご訪問、大変心苦しく思っております」

「伊達家使用人一同、お嬢様のご訪問を歓迎いたします。私めはこちらの別邸の管理を務めさせていただいております。姫君の滞在中、何かございましたら私めにお申し付けくださいませ」

「ありがとうございます。では、早速ではございますが、一つお願いが」



 執事は小首をかしげると琴音の次の言葉を待った。

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