第三章:好きが意味を失った日

 午後の授業は、ほとんど聞いていなかった。

 教師の声はBGMコマンドのようで、クラスメイトの笑い声は、どれも同じトーンだった。


 隣の席の女子が時折、俺を横目で見ては微笑む。三つ後ろの席の男子も、何か言おうとして口を閉じた。


 ——空気が、全部に最適化されている。


 それが嫌だった。

 ……いや、正確に言えば、怖かった。


「ちょっと、ごめん。」


 俺は休み時間に立ち上がり、廊下に出る。

 スマホを片手に、メッセージを適当に送る。


「今、誰か付き合ってくれない?」

→10秒後:14人からOKの返信

「誰か、今日俺をフったりしない?」

→5秒後:3人から「冗談うまいね♡」


 俺は笑うしかなかった。


 好きって、なんだ?

 次の授業中。俺は机の上に紙を置いた。


 そこにペンでこう書いた:


「好きは命令」

 隣の子が見て、にっこり笑った。


「深い言葉だね〜、さすがハルトくん!」


 ……何も、伝わっていない。


 放課後、俺は校舎の裏で一人の女子生徒に話しかけた。


 彼女は名もなき存在——背景キャラのような地味な服装。だけど、その瞳だけが、どこか人間らしかった。


「ねえ、俺のこと好き?」


 彼女は顔を赤らめ、何も言わずにうなずく。


 俺はわざと顔をしかめて言った。


「……俺、君のことなんてどうでもいいんだけど。」


 それでも彼女は——笑った。


「……うん、それでもいい。見てくれるだけで嬉しいから。」


 これが、なんだ。

 どこにも、拒絶がない。

 全てがYESで包まれている。

 ……それはもはや、愛ではなく従順だった。


 その瞬間、背後から誰かが歩いてきた音がした。


 振り返ると、教室で一度も話したことのない女子生徒が立っていた。


 黒髪をサイドで結び、眼鏡をかけた控えめな印象の子。


「……ナナオ、です。」


 唐突だった。

 誰も話しかけていないのに、彼女は自己紹介をしてきた。


 俺は試すように、笑って言った。


「え? ごめん、君……名前なんだっけ?」


 ——その時だった。


 ナナオが、一瞬だけ言葉に詰まった。


 ほんの一秒。

 他の誰もが即答するこの世界で、彼女だけが——ラグった。


 その間が、俺の中で確信に変わった。


 ここにがいる。

 ナナオはすぐに笑って、「ナナオです、改めてよろしくお願いします」と頭を下げた。


 けれどその一瞬は、絶対に見逃さなかった。


 俺は心の中で、もう一度その名前を反芻した。


 ナナオ。

 覚えておこう。

 ……彼女は、この世界の外側に片足を置いているかもしれない。

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