第4話:同期率0.01%の世界

 床に広がっていた血溜まりは、すでに熱を失い始めていた。


 俺はタカシの肩を突き放し、ふらつく足で立ち上がった。鼻から滴る血を手の甲で無造作に拭う。痛みなど感じない。俺の全意識は、モニターに映し出された、あのたった一行のテキストに釘付けになっていた。


『TARGET WORLD: "GAIA" - SYNC_RATE: 0.01% - WARNING: MEMORY INTEGRITY COMPROMISED』


「GAIA……」


 声に出して呟く。ギリシャ神話の大地の女神。だが、そんな悠長な意味であるはずがない。

 これは、俺が今、接続しかけている「世界」の名前だ。


 ネオンは言った。『あなたは『こちら側』に弾き出された』と。

 そうだ、俺は弾き出されたのだ。『GHOST PROTOCOL』という発射台から、『GAIA』という名のターゲットへと。


「同期率、0.01%……」


(……同期率。笑えないジョークだ。かつて俺が敵対者の意識ゴーストを叩き込んだ『砂箱サンドボックス』の仕様そのものじゃないか。ターゲットの精神を外界から切り離し、同期率を極限まで絞って発狂させる……。俺が設計した地獄に、俺自身が落ちることになるとはな)


 これだ。全ての辻褄が合う。


 なぜ俺の記憶は曖昧なのか。なぜネオンの顔をした男が隣にいるのか。なぜ世界がほんの少しずつ歪んで感じられるのか。


 俺という存在のデータが、この世界……いや、GAIAへと転送される途中で、何らかのトラブルを起こしたのだ。

 同期率。それは、この世界における俺の存在確率を示すステータスバーだ。

 0.01%という数字は、俺がほとんど「偽物」……ただの情報の残滓に過ぎないことを示している。


「記憶の整合性、保証されず……」


 俺がアルカディアと戦った記憶も、ネオンを愛した記憶も、そして、タカシと過ごした日々の記憶さえも、全てが転送エラーによって破損したジャンクデータの可能性がある。

 俺は、俺自身の過去さえも、信じることができない。


「K、もうやめろ! お前、自分がどんな顔してるか分かってるのか!? 病院に行くぞ!」


 タカシが俺の腕を掴んだ。その手には、必死さが滲んでいる。彼の目には、狂人を見るような恐怖が浮かんでいた。


 俺はその手を、振り払った。


「病院? 医者に何がわかる。俺の同期率を上げてくれるのか? 俺のメモリを修復してくれるのか?」


「同期率だのメモリだの、もうわけが分からない! お前は血を流してるんだぞ! 人間なんだ!」


「人間?」

 俺は笑った。乾いた、ひび割れた笑い声が、虚しく部屋に響いた。

「今の俺は、人間ですらない。ただの0.01%だ。その数字が、今の俺の全てなんだよ」


 俺はサイバーデッキに向き直る。

 目標は定まった。


 この同期率を、100%に近づける。

 それが、俺が俺という存在を取り戻すための、唯一の方法だ。


 GAIAという世界をハックし、俺の魂を完全にインストールする。

 そのためには、情報が、そしてパワーが、圧倒的に足りない。


「この部屋の設備じゃ、解析すらままならない。もっと強力なマシンパワーと、非合法なレベルのネットワーク回線が必要だ」


 俺は独りごち、行動計画を頭の中で組み立て始めた。

 そうだ、あの場所へ行くしかない。情報と、モノと、そして欲望が渦巻く、あの地下の聖域へ。


 その時、背後でタカシが、か細い声で尋ねた。

「なあ、K……」


 振り返ると、彼はまるで迷子のような顔をしていた。

「もし……もし俺が、本当にプログラムだとしたら……俺は、どうすればいい?」


 その問いに、思考がコンマ数秒フリーズする。

 かつての俺ならあったはずの、同情という名のノイズが、今の俺の思考回路には存在しなかった。


 俺はタカシを真っ直ぐに見据えて、言い放った。

「選択肢は二つだ」


「……」


「お前がプログラムなら、新しい命令に従え。俺の同期率を100%にするために、俺を助けろ。それがお前の新しい存在意義だ」


「……じゃあ、もし、俺が人間だったら?」


「人間なら、なおさら話は早い」


 俺はツールキットと黒いチップを素早く鞄に詰め込み、最後の言葉を突きつけた。


「俺の邪魔をせず、とっとと消えろ」


 タカシは言葉を失い、その場に立ち尽くしていた。

 俺は彼に背を向け、アパートのドアに向かう。


 偽りの日常は、もう終わりだ。

 ここからは、俺が俺自身の現実リアルをハッキングする時間だ。


「行くぞ」


 俺はドアノブに手をかけ、タカシを振り返らないまま、告げた。


「目的地は、闇バー『LIMBO』だ」

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