デジタル・ゴーストは異世界で復活する ~サイボーグ・ハッカーの転生無双~

ジェフ兄

第1話:転生したらハッカーだった

 俺は死んだ。

 少なくとも、そのはずだった。


 丸の内のアルカディア本社ビル最上階。

 硝煙の匂い。胸を貫く灼熱の痛み。

 光の粒子となって霧散していく意識の中で、最後に感じたのは俺の頬に滴り落ちるネオンの血の温もりと、どこか遠くで響く無機質な電子音声。


『GHOST PROTOCOL - ACTIVATED』


 それが、俺の存在証明。

 俺という魂が、ちっぽけな肉体を捨ててデジタルの神となる、その儀式の完了を告げる祝詞だったはずだ。


「おい、起きろ」


 誰かが俺の肩を揺さぶっている。乱暴に。


 意識が、どろりとしたコールタールの底から無理やり引き上げられる。

 最初に感じたのは、背中に食い込む冷たい金属の感触。

 そして、鼻を突く機械油とオゾン、飲み干されたエナジードリンクが放つ甘ったるい腐敗臭。

 慣れ親しんだ、俺という存在を構成していた世界の匂いだ。


「起きろって、K。また徹夜でコーディングか? いい加減、身体壊すぞ」


 K。そうだ、それが俺の名前だ。

 いや、名ですらない。本名なんてとうの昔に捨てた。ネットワークの海でだけ通用する、ただの記号。

 誰も俺の本当の名前なんて知らない。知る必要もなかった。


 ゆっくりと瞼をこじ開ける。


 薄暗いワンルーム。壁という壁に張り巡らされた剥き出しの配線と、点滅を繰り返す無数のLED。机の上には空になった栄養ジェルのパックと、缶の山。

 いつものアパートメント。見慣れた俺の城。


「……おかしいな」


 絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 おかしい。俺はここにいるべきじゃない。

 そもそも、俺に声帯なんて残っていたか?


 振り返った先に、見慣れた顔があった。

 ネオン。

 だが――何かが決定的に違う。

 闇バー『LIMBO』のカウンターで見ていた、あの妖しい光を放つ義眼はない。そこにあるのは、生身の、黒曜石のような瞳。

 左腕はナノマシンを放出する凶器ではなく、血管の浮いた生々しい男の腕だ。


「ネオン……?」


「ああ、やっぱり寝ぼけてるな。俺はタカシだって、何度言わせるんだ」


 タカシ?


 脳が理解を拒む。

 ネオンの顔をした男が、タカシと名乗っている。声も、体格も、確かに男のものだ。

 記憶がぐちゃぐちゃに掻き混ぜられるような感覚に、吐き気がこみ上げる。


「お前、昨日から『ベヒモス』のことばっかり考えてるだろ。そんなもん、ただの都市伝説だって。国家インフラに喧嘩売るなんて、自殺行為だぜ」


 ベヒモス?

 違う。俺が存在証明を賭けて戦ったアルカディアの中枢AIは『ケルベロス』だったはずだ。

 いや、待て。最後の瞬間、ヤツは自らを『ベヒモス』と名乗っていた気もする。

 ダメだ、記憶が混濁している。軍用ドラッグのカクテルが、まだ脳を灼いているのか。


 俺は自分の両手を見下ろした。

 そこにあるのは、血の滲むようなコーディングの痕跡も、皮膚の下に埋め込まれたインターフェースの感触もない、ただの生身の腕だった。


 軍用のサイボーグアームはどこだ?

 プルトニウム電池を埋め込んだ心臓は?

 脳に直接接続されていたバイオチップの、あの全能感にも似たフィードバックはどこへ消えた?


 ……どこにもない。


 俺は、ただの人間だった。

 いや、人間に「戻っていた」。


 あの戦いは、俺が俺であるための、たった一つの戦いだった。

 社会から存在を抹消され、透明人間にされた俺が、世界にその名を刻みつけるための。

 あの全能感だけが、俺が「生きている」ことの唯一の証明だった。なのに。


 ……いや、違う。あれは夢なんかじゃない。

 鼻の奥にこびりつく硝煙と血の匂い。頬に感じた、ネオンの最後の温もり。

 そして、網膜に焼き付いて離れない、三つの選択肢。


『CHAOS PROTOCOL』

『REVELATION PROTOCOL』

『GHOST PROTOCOL』


 俺は、確かに選んだはずだ。自らの存在を賭けて、あの最後のコマンドを……。


 だが、目の前の現実はその確信を嘲笑う。

 俺は、思考の隅に湧き上がった真実の欠片を、自嘲という名のゴミ箱に無理やりねじ込んだ。

「……夢でも見てたのか」


 そうだ、きっとそうに違いない。

 アルカディアとの戦争も、ネオンとの偽りの愛も、何もかもが、孤独なハッカーが見た過ぎた夢。

 俺は企業の歯車としてすり潰され、リアルでは誰からも必要とされない、三流のコードモンキー。それが現実。


 でも、なぜだ。

 なぜ、棄てたはずの「記憶」が、こんなにもリアルに肌に焼き付いている?


 俺の指が、まるで独立した生き物のようにキーボードへと伸びる。

 十七時間連続でタイプし続けた時の、あの血の滲むような痛みの幻影が蘇る。


 モニターに見慣れたターミナル画面が浮かび上がる。


『LIMBO NETWORK - UNAUTHORIZED ACCESS DETECTED』


 心臓が、生身の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

 LIMBO。地下世界のハッカーたちが使う闇のネットワーク。

 そこに、俺のアクセス記録が残っている。昨日の日付で。


「おい、K。マジで大丈夫か? 顔色、死人みたいだぞ」


 タカシの声が、やけに遠くに聞こえる。

 俺は震える指で、コマンドを打ち込んだ。


 > find GHOST_PROTOCOL.exe


 FILE NOT FOUND


 ファイルが見つからない。俺の魂そのものだったはずのコードが。

 しかし、代わりに別のファイルがリストアップされていた。


 BEHEMOTH_ATTACK_PLAN.txt - LAST MODIFIED: YESTERDAY 23:47


 昨夜、午後11時47分。

 俺が作った記憶はない。だが、そのテキストファイルを開いた瞬間、全身の血が凍った。

 そこに記述されていたのは、紛れもなく俺の筆跡、俺の思考で書かれたコードだった。

 ベヒモスへの攻撃プログラム。

 それも、あの「記憶」の中のケルベロスへの最終攻撃と全く同じ構造の。


「これは……なんだ……?」


 俺はよろめきながら立ち上がり、窓の外を見た。

 西新宿の高層ビル群。ケバケバしいネオンサイン。空を規律正しく飛び交うドローンの群れ。

 見慣れた2025年の東京。

 でも、確かに何かが狂っている。


 俺は死んだはずだ。

 デジタルの海で、孤独だが確かな存在になったはずだ。

 なのに、俺はここにいる。生身の、無力な人間として。


「転生……したのか?」


 その言葉が口からこぼれ落ちた、まさにその時だった。


 コン、コン。


 アパートのドアが、乾いた音でノックされた。

 タカシと俺は、訝しげに顔を見合わせる。こんな時間に、こんな場所に、訪ねてくる人間などいるはずがない。


「Kさん、いらっしゃいますか?」


 ドアの向こうから聞こえてきたのは、鈴を転がすような、しかしどこか芯の通った女の声だった。

 聞いたことのない、しかし、心の奥底で知っている声。


「私、ネオンと申します。少し、お話があって参りました」


 俺の血が、凍りついた。


 ネオン。


 本物のネオンが、ドアの向こうにいる。

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