マイ・ファースト・X
Maki
第1話 出会う
六月の後半、午後四時過ぎ。チャイムが鳴ってホームルームが終わるとすぐに、彼は教室をそそくさと出ていった。教室に残り談笑する生徒の話し声を、普段から丸めがちな背中に受けながら、教室を出る。校舎を出る途中で、彼は職員室の近くに張り出されている中間テストの成績上位者の掲示に目をやる。彼が高校に入ってから最初の試験だった。成績上位者リストの最下層の方に、彼は自分の名前が載っているのを見る。
彼は名前をすぐに見つけることができた。賀茂一生観(かずおみ)。珍しい名前だと、賀茂自身も自覚している。それから、彼は自分の点数に視線を向けた。彼と同程度の成績順位の生徒の中には、ある教科だけは飛びぬけて優れていて、それ以外に致命的な科目があるという生徒がいるものだが、彼の成績は全て平均のやや上である。つまるところ、特筆すべきことが無い。彼が自分の成績を確認する間、足を止めたのは数秒だった。
校門を出ていくつか信号を越えると、河川敷沿いの道に出る。そこが通学路だ。平日の午後、人通りは少なく、視界は遠くまで届く。賀茂には自分が歩く足音がはっきりと聞こえている。見える風景は代わり映えしないもので、自身の足音がかろうじて移動していることを実感させている。実際の距離はたかだか徒歩で十分程度だが、恐ろしく退屈な道なのである。
だが、それを賀茂が不満に感じることはない。退屈で、何も起こらない日常が貴重なものであることを、彼はよく理解していたからだ。中学時代、賀茂は不登校だった。原因はよくあるいじめだった――それ以上説明ができないのだ、何が原因でいじめが始まったのかよく分かっていないのだから。素行や言動に問題があったわけでも無く、身長や体重を始めとした容姿も何か特徴的なものがあるわけではなかった。強いて言えば多少お人好しな所があるのと、視力が若干低く、猫背気味なことぐらいだ。
そんな賀茂が何故いじめにあったのか、原因を分析することは不可能であると、少なくとも賀茂はそう信じている。単なる運のめぐりあわせでそうなったのだと、そういうことにしておいた。かくして不登校にはなったのだが、その後の対応は適切であった。すぐに環境を変え、全日制の高校入試のために勉強をして、そうして今の高校に入学を果たしたのだ。
だから、平凡で退屈な日常を、賀茂は不満に感じることをしないようにしている。刺激のある日常とやらは、何か自分とは別の種類の人間のものだと考えている。それは身に余るものだった。このまま過ごしていけば、きっと普通に高校を卒業して、普通に大学に入って、それから……河川敷沿いの道を歩きながら、そんなことを賀茂はたまにふと考えてみたりするのだが、今回も相変わらず何一つ具体的なものが出てこなかったので、すぐに考えるのを止めた。
賀茂の額に一筋の汗が伝う。長い梅雨が明けて、今日はむしむしと暑い。黒縁の眼鏡の鼻元に汗がつたってきたので、賀茂は眼鏡を外して伸び気味の前髪をかきあげながら顔をぬぐった。つい数日前には大雨が降って、場所によっては被害が出ていた。眼鏡をかけなおした賀茂はふと視線を足元にやった。道のすぐそばの雑草が湿って、泥が付いている。この辺りも増水が酷かったのだろうか。それから、賀茂は川の方を見た。水量は既に落ち着いており、普段と何一つ変わらなかった。しかし、川の周囲に押し上げられた泥が増水の痕跡を示していた。そのせいで普段はすぐに視線を移してしまう、あるいは見向きもしないようなその川を、賀茂はしばらく見ていた。
川に架かるコンクリート橋の下には、以前は恐らくホームレスの段ボールやブルーシートがいくつかあったもので、それを彼は遠目で見たりしたのだが、今は何も無くなっている。押し流されたのだろうか、あるいはあらかじめ場所を移しておいたのだろうかと考えながら、しばらく賀茂はそこを見ていたのだが、ふと足を止めてしまった。そこで、あるものを見てしまった。
それは川岸に流れ着いた、人の姿だった。それは彼とさほど年の変わらない少女のようだった。その全身は水浸しで、動く様子は無い。彼の周囲に人の姿はなく、それに気づいたのは彼だけであった。急に彼の手足から血の気が引いて、鼓動が早まる。
「なっ……何、嘘だろ?」
そんな言葉が賀茂の口をついて出た。そして反射的に、川岸に倒れたその少女の元に駆け寄って行った。ぬかるんだ斜面を泥を跳ねながら急いで下って、少女の元へたどり着く。白いワンピースを着たその少女は全身びしょ濡れで、一切動く様子は無い。賀茂はその少女の肩を掴んで川岸から引き上げる。少女の体は冷え切っており、それは賀茂の頭に最悪の事態をよぎらせるのに十分すぎる程であった。それでも、少女を仰向けにしてその肩を揺らしながら、声をかけ続けた。
「おい、大丈夫か!起きてくれよ、なあ!」
賀茂は既に冷静さを失っていた。引き上げられた少女はとても蘇生するとは思えない状態であった。ワンピースは泥に汚れ、唇や爪からは血色が抜け、全身が脱力している。それでも彼は警察や救急に連絡することもなく、少女に声をかけ続けていた。
その時であった、賀茂は自分の手のひらに感触を覚える。それは手のひらの下に、自分のものでは無い脈が走る感覚だ。少女の冷え切った体が、熱を帯び始める。そして少女の瞼が僅かに震えると、その全身に力が蘇った。少女はゆっくりと状態を起こしながら眼を開く。唇に血の気が戻り、その眼は賀茂を捉えた。少女は完全に蘇生したのだった。
だがその時、賀茂が覚えていたのは安堵では無かった。むしろ、恐怖していたのだ。目の前にいる、つい先程まで死の淵にあった少女の眼を見ているうちに、賀茂は少女から目が離せなくなった。濡れた亜麻色の髪は日の光に透けるように光り、陶器のように白い肌に、うっすらと赤みがさす。睫毛の長い二重の瞼の下には、深い赤茶色の瞳がある。先程まで水死体のようだった少女は、今や生命力の象徴のようであった。その少女と比べれば、賀茂の方がむしろ生気を失った死体のようだった。賀茂は少女の肩から手を離し、立ち上がって二、三歩ほど後ずさる。しかし少女は賀茂の動きに合わせるように、一瞬たりとも視線をそらすことなく立ち上がる。いつもよりもさらに背中を丸めて縮こまった賀茂の目線と、すっと直立した少女の目線の高さが等しくなる。
少女は口を開く。その目は賀茂の方を見ていたが、もっと遠くを眺めているようだ。
「やっぱり駄目、か」
その少女は独り言の様につぶやく。
「と、とりあえず目を覚まして良かった。じゃ、これで……」
そう言ってその場を離れようとする賀茂を、再び少女の視線が捉える。少女は賀茂の両肩を掴んで引き留める。呼吸が肌にかかるほど近くに少女は身を寄せて、賀茂の耳元で話す。
「……決めた。君にしよう。気に入ったの、君と私で、最初になろう」
その声に賀茂が答える猶予を与えることなく、少女は賀茂の首筋に噛みついた。
首に呼吸をしていられないほどの激痛を感じ、賀茂はその場に膝から崩れ落ちる。少女の方を見ることもできないまま、その場にうずくまる。痛みはすぐに全身に伝播し、意識は遠のいて、そうして少女が流れついた川岸に倒れて、意識を失った。
六月の梅雨明けの陽気を感じることもなく、賀茂はその場に倒れていた。
それから数時間が経って、日が傾いてきた頃、自分を呼ぶ声に気が付いて賀茂は目を覚ました。警官らしき人物が賀茂に呼びかけていた。周囲には人だかりができていた。どうやら川岸に倒れているところを散歩をしていた親切な通行者が発見し、警察に連絡をしてくれたのだそうだ。ざわめく周囲をよそに、賀茂は首筋に手をやった。手が触れると、微かな痛みが走る。賀茂は改めて周囲を見回したが、どこにもあの少女の姿はない。
首筋の痛みのほかに賀茂の身体に異常はなかった。病院に行かなくていいのか、と尋ねてくる警官を何とかいなして、逃げるように自宅に帰った。帰宅するや否や、賀茂の両親が家を飛び出してきた。時刻はすでに夕方五時半をまわろうとしていた。普段ならとっくに帰宅していて、自室で勉強なんてしている頃だった。放課後に友人と共にどこかへ遊びに行くということも、賀茂はほとんどしない。少なくとも中学時代の中ごろからは一度も無いため、この時間に家にいないことは到底あり得ないことだった。
賀茂の母親は専業主婦で、父親は会社員だ。お互いに柔和な性格で、心配性なところがある。いつまで経っても彼が帰宅しないのを心配した母親が父親に連絡して、父親は仕事を切り上げて急いで帰宅していたのだ。両親は我が子の姿を見て安堵し、しかしすぐにまた心配になった。賀茂の制服は泥にまみれ、傷こそないが顔や髪まで汚れていた。中学時代を考えれば心配になるのも無理はないだろう。賀茂は両親にしばらく、あれこれと言い訳する必要があった。しどろもどろの説明であったが、両親はしぶしぶ納得した。賀茂の両親に、自分の子供の言うことを疑うという発想はなかったのだ。
その後、賀茂はすぐに着替えてシャワーを浴びて、ひとしきり心配していた彼の母親に夕食を作る気力が残っていなかったので、彼の一家は夕食を近場の大手チェーンの中華料理屋で食べることにした。その中華料理屋に来た時にはいつも、彼は天津飯を食べている。疲れていたせいだろうか、塩辛いぐらいの濃い味付けがいつもより美味しいと思った。
自宅に戻り、諸々の準備を済ませて後は寝るだけになって、賀茂は自室で首元に手を当てた。ぴりりと細い針で指したような痛みが走る。スマートフォンを取り出して首元辺りをモニター越しで見てみれば、そこにはぽつぽつと赤い点が、ちょうど歯型のようについていた。おおよそ犬歯が生えている辺りにひときわ大きな傷があって、そのあたりを指で押し込むと、血が滲んだ。そのまま指で血をぬぐってから、照明を落とし、ベッドに横になる。賀茂はすぐには眼を閉じずに、しばらく暗い天井を見つめていた。
河川敷での出来事を思い返さずにはいられなかった。もう眠ろうと思い、賀茂が体の向きを変えるたびに、首元に微かな痛みが走る。途中、カーテンの隙間から街灯の光が目に入る。目を閉じれば、光の残像がぼんやりと浮かんだ。賀茂のことを見つめた河川敷の少女の瞳、深い赤茶色の瞳を思い出すと、背筋に寒気が走る。中学校でいじめられていた時にも、そんな感じを覚えたことは無かった。賀茂は身を丸めて、とにかくあの少女が無事だったのだからこれで良いのだと、そう思い込んで眠ることにした。
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