第一話
けたたましい目覚ましの音に、心地よかった夢の余韻を無理やり引き剥がされる。大きなため息が自然と漏れた。
眠気の残るまま、台所へ向かい、灰皿代わりにしている小瓶の蓋を開ける。冬至が近いこの季節、朝に吸う煙草の味は、夏のそれとはどこか違っていた。湿気を含んだタバコの葉はどこか艶めいていて、その煙は満たされない心の隙間を一瞬だけ埋めてくれる。
俺は自炊派だ。毎朝食べるものは同じ。飲み物は水だけ。
朝食のメニューは、パスタと味噌汁。まるで日本とイタリアの国交を祝う儀式みたいだ。――誰か、この素晴らしい食文化の融合について俺にインタビューしてくれないか、などとくだらないことを思いながら、パスタを茹でる。
その間、咥えた煙草に火をつける。ふと視線が小瓶に向かう。銀色の本体はつややかだが、蓋の部分には茶色くこびりついたヤニが層になっていた。それはまるで、人間の内にこびりついた醜さを可視化したようで、少し気味が悪かった。
鏡のようだと思った。呪いのようでもある。無意識に自分を写しているような気がして、嫌でも目を逸らせなかった。
朝食を終え、身支度をしているとスマホが鳴る。顔馴染みからの連絡だった。レポートを忘れたから見せてくれという、よくある頼み。うんざりするが、煙草一箱で交渉成立となった。
年の瀬だというのに、駅にはサラリーマンの波。人混みをかき分け、大学構内にある唯一の喫煙所で一服をする。しばらくすると、奴が現れた。
「やあ、緑ノ助(みどりのすけ)。今日も早いね」
名前で呼ばれるのはあまり好きではない。だから返事をせずにスマホをいじる。画面には「晦様(つごもりさま)――その正体に迫る」という見出し。都市伝説の類らしい。記事は流し読みだったが、どうやら一部のマニアの間で静かなブームになっているらしい。
「お代官様、ハイライトでございます。どうかこれでひとつ……」
朝からテンションが高すぎる。古くからの腐れ縁だ。仕方がない。
「お主も悪よのう」
しぶしぶ返してやると、互いに乾いた笑いが漏れる。なんとなく懐かしい気持ちになった。
「いつも悪いね。これ、頼まれてたハイライトだったっけ?」
彼はタバコを吸わない。だから“ハイライト”のイントネーションがどこかおかしい。
これで契約は完了。
「で、最近はどうよ」
彼が小指を立てる。そんな古臭いジェスチャー、今どきやるやついない。
「いや……あの人以来、さっぱり」
俺が答えると、彼は少し間をおいて言った。
「あの人、ね……」
「探したんだけどな。初めて会った喫煙所とか、一緒に行ったカフェとか……でも、名前も知らないんじゃ、どうにもならないよな」
思ったよりも、自分の声が寂しげで驚いた。
「レポート、ありがとな。助かったよ」
彼は申し訳なさそうに言った。
「たまには飯くらい奢ってくれてもいいんじゃないのか」
「そのうちな。良いお年を」
そう言って、彼は軽く手を振り、小走りに喫煙所を去っていった。
新しく貰ったハイライトの封を切り、誰もいなくなった喫煙所で、彼女のことを思い出しながら火をつける。その煙は、甘く、どこか切なかった。
俯いていたせいで、煙が目にしみた。涙が、頬を伝った。
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