第29話「クリスマス・イヴの夜」
雪の降る音が、まるで世界の音をすべて包み込んでしまったようだった。間接照明だけが静かに灯る恵の部屋。
カーテン越しにぼんやりとした街の灯りが滲み、壁に優しい影を落としている。ベッドの上で静かに眠る恵。その胸の奥で、もうひとつの存在が目覚めようとしていた。
――夢の中。
白い靄が立ち込める空間の中、そこに佇むのは、かつてこの世にいた少女・恵だった。透明でありながら確かにそこにいる――そんな不思議な感覚が恵一にはあった。もう一人の自分、あるいはかつての姉。その姿が、ふっと現れる。
「ねえ、恵一?」
柔らかく響いた声は、まるで雪の粒が心に触れたようだった。
「どうしたの? 姉さん…?」
恵一は、驚きよりも懐かしさに胸を締めつけられながら声を返す。
「今日、文ちゃんから……キス、されたの」
その言葉と同時に、彼の唇にはかすかに残る熱が蘇った。あの夜、照れながらも震える手で触れてきた文香の体温。甘く、切なく、そして真剣だった。
「うん、わかってるよ。姉さんの体を通じて、俺に伝わったから……」
「文ちゃんはね、私の体を通して、ずっとあなたのことを見てるの。私じゃない、恵一、あなたを…」
恵の目が揺れていた。透明な瞳の奥に、強い確信と、どこか哀しみを孕んだ光が宿っている。
「今日のキスで、はっきりとわかったの。彼女の心は、私の中にいるあなたに向けられていた。これは、あなたのためのキス。彼女はあなたを、心から求めてるの。愛してるのよ…」
「……姉さん……」
「ねえ、恵一。私ね……あなたの体の中にいたとき、ずっと思ってた。どうして私は、この世界で“存在”していられないのかって。
見えるのに、聞こえるのに、考えられるのに……なぜ、触れられない? 味わえない? なぜ私には、“生きる”という実感がないの?」
言葉の一つ一つが、恵一の心に鋭く突き刺さった。
「その葛藤の中で、自我に目覚めてしまったの。そして……あなたの体で、生きようとしてしまった」
「姉さん、それは……」
「ごめんなさい。私は、あなたの時間と人生を奪ってしまうことを、あのときは考えなかった。ただただ、“感じたい”という願いに突き動かされてしまったの……」
恵一はゆっくりと首を振る。
「深く考えるなよ、姉さん。誰も悪くない。2人ともこの世界で生きるはずだった。ただ、たまたま……姉さんの体が消え、俺の体に融合しただけ。反対だった可能性だってあるんだ」
「……それでもね、私はあなたの体で、いっぱいやりたいことをやったのよ。笑って、泣いて、全力でぶつかって……。でも、やっぱり“違った”」
彼女の声が細く、苦しげになる。
「みんなの目に映っていたのは“河村恵”じゃなくて、“河村恵一”だった。みんな、あなたの過去とつながっていた。あなたがいたから、私に優しくしてくれたの。文香ちゃんも、コウメイ君も、奈々美さんも……」
「それは、あなたがこの世界で築いた絆なのよ」
「……姉さん……」
「ねえ、恵一。あなたは、いつも自分に必要なことだけを選び取って、無駄なものには手を出さない。そういう生き方をしてきた。立派だと思う。でも……」
「でも、今のあなたの状況は、本当に“やりたいこと”なの?」
静かな問いかけが、恵一の奥深くに潜む何かを震わせた。
「あなたの今の“選択”は、ただ私を受け入れただけなんじゃない? あなたの人生を止めてしまってるんじゃないの? そんなの……あなたらしくないわ」
「自分の意志を、ちゃんとこの世界に示して。あなたはもっと……強いはず」
「失敗したっていいのよ。うまくいかなくても、それはあなたの一部になる。無駄なんかじゃない。挑戦することに、意味があるのよ」
その声はもう、姉ではなかった。彼の“心の中のもう一人の自分”だった。
「ねえ、恵一。私は今、あなたと文香ちゃんの世界を、時間を……戻してあげたいと思ってるの。そのためには……あなたの強い意志が必要なの」
「俺の……?」
「そう。私が強くこの世界を望んだことで、あなたと体が入れ替わったのなら――逆もきっと起こる。あなたが、この世界で“生きる”と強く願えば、戻れるかもしれない」
「でも……姉さんは……」
「うん。また、あなたの潜在意識の中で生きることになる。でも、今度は違う。もう、ひとりじゃないの。あなたは、私の存在を知ってる。みんなも、知ってくれてる。もう、孤独じゃないから……」
恵一の胸が、軋んだ。
「姉さん……」
「優しい子ね、あなたは。ずっと、そうだった」
そして最後に――
「あなたの“気持ち”を……私の目を通して、耳を通して、感じさせて。あなたの強い思いを、この胸に、届けて――」
――そのとき。
窓の外が、うっすらと白み始めた。
夜が、明けていく。
そして。
ゆっくりとまぶたを開けた恵。頬には、一筋の涙の跡。
「……恵一、私の思いを、どうか……受け止めて」
その声はもう、夢の中の姉のものではなかった。自らの中にいる“誰か”と、確かにつながった実感だった。
カーテンの隙間から、やわらかな朝の光が差し込む。
それは、まるで新たな一日と、ひとつの決意の始まりを告げているかのようだった――。
(つづく)
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