第18話『夏の風の中で──部活動再開の日』

蝉の声が降りしきる、夏休みのある朝。体育館へ続く道には、すでに日差しが容赦なく降り注ぎ、アスファルトの上を陽炎がゆらゆらと踊っていた。

「おーい! メグ!」

通い慣れた通学路の角から、明るい声が響く。振り返ったその先に、懐かしい少年の姿があった。

「……あ、おはよう。コウメイ君」

その声に気づいて微笑んだのは、どこか涼やかな眼差しを携えた少女──いや、"彼女"であると同時に、"彼"でもあった。

「おはよう。メグ……ミさん」

コウメイは一瞬、言葉に詰まった。変わってしまった発音、少しの戸惑い。メグ──かつての“恵一”の姿が、そこにあるようで、確かに違っていた。

「……コウメイ君。メグでいいわよ」

「うん、じゃあ……メグ、で」

「いつも通りに、するんでしょ?」

「……つい、意識しちゃって……」

少しだけ頬をかく彼の仕草を、メグは柔らかく見つめた。

「コウメイ君。……私の中に、恵一はいます」

その声には、まるで深く澄んだ湖のような静けさがあった。

「私の中の恵一に聞こえるように話すつもりで、言って」

「……うん」

「きっと、あなたの声が、恵一に届くと思うわ」

しばしの沈黙のあと、コウメイは目を細めて笑った。

「じゃあ……今日も頑張って練習しようぜ、メグ!」

「はい」

メグの返事は、風に乗って小さく響いた。



<体育館男子更衣室>


「あ! メグちゃん! おはよう!」

「おはよう。ケンちゃん」

「おはよう! あ、今日から復帰なんだな、メグちゃん」

「ええ。おはよう、フミちゃん」

久しぶりの部活。空気には汗と埃の匂いが混ざり、どこか懐かしい。それぞれがラケットを持って雑談に花を咲かせるなか、メグは一礼しながら口を開いた。

「先輩……色々ご心配おかけしました。今日からまた、よろしくお願いします」

「おう。無理すんなよ。体が戻るまではスローペースでな」

「はい。ありがとうございます」

そのやり取りの後ろから、賢二がひょっこり顔を覗かせる。

「メグちゃん、ちょっと見ない間にさらに女っぽくなったな?」

「うん、なんか色っぽいっていうか……な?」

「そうかしら? あなたたちから、そういう目で見られるの……ちょっと、辛いわ♥」

にこりと笑うメグの目の奥に、ほんのわずかな陰が宿る。それに気づいたのか、賢二は慌てて手を振った。

「あっ、ごめん、ごめん。しゃべり方まで完全に女の子だもんな、つい……」

「……なんか、だんだん幻覚でも見てる気分になってきたわ」

「おまえら、いい加減にしろって。彼女いないからってさ」

コウメイが少し語気を強めて言う。

「……メグが女に見えたら、もう終わりだよ……」

「確かにな。久しぶりに見たから余計そう思っただけさ。ははは」

「ごめんな、メグちゃん。茶化すつもりはなかったんだ。久しぶりに来たのに……」

「ううん。……大丈夫よ。平気だから」

彼らの悪気のない視線も、冗談交じりの言葉も、メグの心には少しずつ刺さっていた。それでも、彼女──彼──は微笑みで包み込む。

「さあ、着替えて練習いこう!」

コウメイの声が空気を切り替えた。

(……あぶない、あぶない。メグのしゃべり方がああなってると、ほんと焦る……)


<体育館 >


体育館に、軽快な打球音がリズムを刻み始める。空気の中に汗と熱気、そして懐かしい緊張感が満ちていた。

「おい、メグ! 大丈夫か?」

「うん。大丈夫。心配しないで」

(……でも、打球の力は、やっぱり落ちてるな)

(そりゃ、体が女性になったんだから……当然か)

(……でもフォームは、昔と変わらない。ということは……)

「どうしたの? コウメイ君」

「いや、(恵さんの体力、て、大丈夫かなと思って……)」

「私は大丈夫よ。……恵一がね、私の体の中で……喜んでいるの」

「メグが?」

「そう。……久しぶりに、コウメイ君と乱打ができて。とっても、喜んでいるのよ」

「……メグは、感じてるんだ!」

「ええ。私の身体を通じて、あなたと繋がってる」


(女子卓球部の二人がやってくる)


「久しぶりね、河村君!」

凛とした声が響き、振り向いたメグの前に、藤岡純夏が立っていた。その隣には、微笑を浮かべた森崎奈々美。

「あ……藤岡先輩。ご心配おかけしました。今日から復帰しました」

「おはよう、河村君!」

「森崎先輩も、おはようございます」

「先輩たちは、時々練習に顔を出してくれてるんだよ」

「そうなんだ……」

「どう? 久しぶりにダブルス、やってくれない?」

「どうする? 無理なら断ってもいいから」

「……コウメイ君は、どうしたいの?」

「……そりゃあ、もちろん練習したい」

「でしょうね。言うと思ったわ。……あなたがやるなら、やりましょう」

「ほんとに大丈夫ですか……?」

「ええ。平気よ。それに、先輩方と練習できる機会なんて、もうそう何度もないでしょう?」

「それは、そうだけど……」

「やりましょう、コウメイ君。自然の法則よ!」

「……メグ!」

そう呼ばれた名が、夏の体育館に軽やかに響いた。


夏の盛り、午後の体育館には熱気と乾いた汗の匂いが立ちこめていた。窓の外では蝉が鳴き、薄くさし込む光が床をまだらに照らしている。

その中で、軽快な乱打の音が、ひたすらリズムよく響いていた。ラバーに吸い込まれるボールの音。スニーカーがフロアを滑る音。熱と集中の気配。

「ちょっと、河村君の打球…なんだか力がないわね」

純夏がつぶやいた。彼女の眼差しは真剣だった。相手が誰であれ、コートに立つ以上、見抜くべき点は見抜く。部長として、そしてひとりのライバルとして。

「そうね。でも…」奈々美も続ける。スッと前髪をかき上げ、眉をひそめた。「攻めてくるコースが変わった。全然違うの」

純夏は静かにうなずく。「確かに。球の威力は落ちてる気がするけど…攻撃パターンが全然違う!」

「メグ、すごいな」コウメイが小声でつぶやいた。ボールを追いながら、その横顔は少し驚きと誇らしさが混ざっている。「先輩たち、ちょっと困惑してるぞ」

恵は、汗を拭いながら淡く微笑む。「これは今だけなの。通じるのは」

「え?」

「私が“恵一”だった頃とは、体も感覚も変わった。それに、攻め方も。でも、先輩たちにはそれがまだ読めていないだけ。だから今だけ有利なだけよ」

「なるほど…まだ慣れられてないということか」

「ええ。だから、慣れられたら終わり。私がかき回すわ、できるだけ長くね」

「頼むよ、メグ」

その言葉には、コウメイの純粋な信頼と、仲間としての想いが滲んでいた。

やがてゲームが終わり、純夏がラケットを持ち直しながら微笑んだ。

「いやー、参ったな。たまに顔出してるくらいじゃ、やっぱりあなたたちには敵わないわね。ねえ、奈々美?」

「そうね、今日は河村君に大分やられたわ」

恵は軽く頭を下げた。「ありがとうございます、先輩」

奈々美も微笑んで近づく。「元気になって、良かったわ。河村君」

「ありがとうございます、森崎先輩」

その声は、心の奥で響いた。「元気になって」。それは肉体だけでなく、自分自身の在り方を肯定してくれる言葉に聞こえた。



──そして、練習が終わり、体育館の前。


残照が校舎の壁にオレンジ色の影を落とすころ、純夏がそっと声をかけてきた。

「あ、城山君。ちょっと…いいかな?」

「なんですか?藤岡先輩?」

純夏は少し照れたように口ごもり、後ろにいた広美がひじでつついた。

「早く言いなさいよ、純夏!」

「もー…今度の土曜日、間鳥居祭りあるでしょ?天の川公園で」

純夏は頬を赤らめながら、ようやく言葉を続けた。

「その……一緒に、行きませんか?」

「お祭りですか?いいですよ」とコウメイが即答する。

「なあ、メグ?」

恵は少し驚いた顔で横を見るが、微笑みながら頷いた。「うん。いいわよ」

「俺、メグと行こうと思ってたんです」とコウメイは先輩たちの目の前でも堂々とそう言った。

「メグと一緒でもいいですか?」

純夏は、ホッとしたように、けれど少しうつむいて。「ええ、もちろんよ……良かった」

奈々美がニヤリと笑いながら声をあげた。「あら、嬉しそうじゃない?純夏さん?」

「もう!奈々美ったら、やめてよ!」

「奈々美もどう?一緒に?河村君もいるし」

「私はその日は…ちょっと無理なの。それに……」

奈々美は恵の方をちらりと見て、にやりと微笑んだ。

「河村君には彼女がいるしね♥」

「えー!?ほんと?誰?誰なの?」純夏が声をあげ、目を丸くした。

「城山君、知ってるの?」

「ええ、知ってますよ。同じクラスの松原さん。メグの隣の席の子なんですよ」

「そっか……残念だったわね、奈々美」

「そんなことないわよ、私は♥」

奈々美は背を向けて、まるで一人ごとのように小さくつぶやいた。

(──だって、私は河村君の初恋の人なんですもの)

「ほほほ」と笑うその後ろ姿に、純夏が目を細める。「なんだか嬉しそうね、奈々美」

「そうでもないわよ」

広美がにこやかに割って入った。「じゃあ、純夏と私と、城山君と河村君の4人で行きましょうか?」

「ええ、いいですよ。なあ、メグ!」

「はい、いいですよ」

夕暮れの光が、四人の影を長く伸ばしていった。その先に続く夏の夜。天の川公園、祭囃子。笑顔と少しのときめきが、そこにあることを、誰もが予感していた。


(つづく)

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