第15話「目覚め」

薄いカーテン越しに、朝の光が柔らかく射し込んでいた。清潔で無機質な病室には、機械の規則的な音だけが静かに鳴っている。

ベッドの上に横たわる恵一の身体は、まるで深い眠りの底に沈んでいるかのように微動だにせず、その頬にはうっすらと汗が浮かんでいた。

看護師が静かにドアを開け、熱を測る。医師がそれを確認しながら、小さく頷いた。

「うーん、熱がようやく下がりましたね。もう大丈夫でしょう。そろそろ意識も回復していくはずです。」

ベッドの脇に座っていた恵一の母は、その言葉に胸をなでおろしたように深く頭を下げた。

「ああ…ありがとうございます。」

医師は軽く微笑んで、カルテに記録を付けると病室をあとにした。だが、まだその瞼は重く閉ざされている。


――その頃。


恵一の意識は、どこまでも深く、暗い場所を漂っていた。まるで夜の海の底のように光の届かない空間で、彼は彷徨っていた。

「……ここは? どこだろう……」

耳を澄ませても、音ひとつない。手を伸ばしても、何も掴めない。

「俺は……まだ寝てるのか……? ああ、そうだ……合宿中に……倒れて……」

断片的な記憶が浮かんでは消えていく。

「でも……今……俺には意識がある……。じゃあ、なんで……目が覚めないんだ?」

自問する声が、暗闇にぽつりと響く。そのとき、ふと胸の奥に、何か大切なことを思い出すような確信が芽生えた。

「そうか……俺の意識は……姉さんに移ったんだ……。だから、姉さんが目を覚まさない限り、俺自身も……この世界に触れることはできない……」

言葉にすることで、真実は輪郭を持ち始めた。恵一は、目を閉じたまま、姉の名を呼んだ。

「姉さん……姉さん……聞こえるかい……? 俺だよ、恵一だよ……」

沈黙の海に、小さな波が立つ。かすかな声が、遠くから返ってきた。

「……う……ううん……」

「姉さん……起きて、姉さん……俺が呼んでるんだ……」

「う、ううん……けい……いち……?」

「そうだよ、姉さん。俺だ。感じるかい? 俺の意識が、姉さんの中にいるってこと……」

「ええ……感じる……あなたのこと……」

声はまだ不確かで頼りないが、たしかにそこにいた。

「姉さん。今、姉さんは病院にいる。俺が倒れたから……多分、ここに運ばれているんだ。」

「病院……?」

「そう。俺の身体はもう……姉さんのものになっている。そして、俺は……姉さんの意識の一部になった。」

「わたしの中に……あなたが……?」

「そうだよ、姉さん。俺は死んではいない。生きてるんだ、姉さんの心の中で。」

少しずつ、彼女の意識が浮上していく。言葉が、繋がっていく。

「……わたしが……目を覚ます番……なのね?」

「そのとおり。今度は姉さんが、この世界を――俺のいた世界を、生きる番なんだよ!」


一瞬の静寂。そして――


ゆっくりと、重たく閉じられていた瞼が動いた。

「う……う……ん……あん……」

ぼやけた視界の中、母の顔が滲んで見えた。

「あっ……恵一が……気がついた……!」

医師が再び現れ、懐中電灯で瞳を確認しながら静かに頷いた。

「……もう大丈夫でしょう。良かったですね。」

「ありがとうございました……!」

「念のため、明日精密検査をします。異常が無ければ退院ですね。」

「はい。……ありがとうございました。」

病室の窓から外を見つめながら、彼――いや、**彼女となった恵(めぐみ)**は、胸に手を当てる。

「あれが……お母さん……」

「そうだよ、姉さん。あれが……俺たちの、母さん……」

「お母さん、私のことを……あなた、恵一だと思っているのね……」

「それは……仕方ないよ。話したところで……混乱するだけだ。」

「そ……そうね……」

翌朝、精密検査は問題なく終了した。

「特に異常はありません。これで退院していただいて結構ですよ。」

車の助手席で、静かに揺れる景色を見つめながら、彼女は呟いた。

「……皆さんに……お礼……言わなきゃね……」

「いやね、この子ったら……なんだか、女の子みたいな話し方ね。」

「(……お母さん……私は……女の子……恵(めぐみ)よ……)」

心の中で、静かにそうつぶやいた。


それは新しい命の始まりだった。

今、彼女はこの世界に生まれ落ちたばかりの、**新しい“わたし”**として、最初の一歩を踏み出そうとしていた――。


夕暮れの光がカーテン越しに淡く差し込む部屋の中。恵(めぐみ)は静かにベッドの上に腰を下ろしていた。どこか見慣れないその空間。

けれど、空気の匂い、机の上の消しかす、壁に貼られた古いポスターが、どこか懐かしさを呼び起こす。

「ここが……恵一の……部屋……」

細く吐息を漏らすように、めぐみが呟いた。

『そうだよ。ここが……俺の部屋。今日からは、姉さんの部屋だよ。』

内側から響くように、恵一の声が静かに答える。

恵(めぐみ)は机の引き出しをそっと開けた。中から取り出したノートをめくると、雑な文字で書かれた卓球の練習メニューや落書きが目に映る。それらはまるで、過去の彼が「ここにいた証」を刻み込んだようだった。

彼女はふと立ち上がり、壁にかけられた卓球ラケットに指を伸ばす。そして、柔らかくそのグリップを握る。

「……ねぇ、恵一。これから……どうすればいいの?」

その問いは、まるで自分の存在そのものへの問いかけのようだった。

『……そうだな。まず、雨宮先生に会おう。保健室の先生。きっと俺が倒れたとき、色々お世話になったと思うから。』

「……会ってみるわ。ありがとう。」


翌日の午後。夏の陽射しは容赦なく降り注ぎ、アスファルトからはむっとした熱気が立ちのぼる。

「おかあさーん、ちょっと学校行ってくるね!」

階下からの声に、台所にいた母親が顔を上げた。

「大丈夫かい? 無理しないでね。」

「ええ、もう大丈夫。学校の先生にお礼を言わなきゃ。」

その姿に、母は一瞬、眉をひそめた。

「それにしても……お前、夏休み前からずっとその女の子の制服……学校で何も言われないの?」

「え、あー、うん。これはね、先生に着るようにって言われたの。ちゃんと許可もらってるから。」

「そう……ほんと、女の子みたいね、最近のお前……」

恵(めぐみ)は言葉を詰まらせながらも微笑み、「じゃあ、行ってきます」と玄関を飛び出した。

(お母さん……私は、ほんとに、女の子……恵〈めぐみ〉よ……)

心の中でそっと、誰にも届かない声で、そうつぶやいた。

陽光が照り返す通学路。蝉の声が耳にまとわりつき、白い制服の襟元を汗が伝う。

「……暑い……」

額に浮かぶ汗を拭いながら、恵(めぐみ)は立ち止まった。

「……肌で……暑さを感じる」

「……これが、汗。……私の体が、反応してる……」

「……太陽が、まぶしい……光を、感じる……」

『姉さん、これが……本来、姉さんが味わうはずだった世界。今、姉さんは自分の肌で、この世界を感じているんだ』

その言葉に、恵(めぐみ)はゆっくりと目を閉じた。

蝉の声、空気の熱、光の粒――全てが新しく、鮮烈で、彼女の中で「生きている」という実感になっていた。

学校の体育館に足を踏み入れると、冷房の風がわずかに肌を撫でた。中では男子卓球部が汗を飛ばしてラリーを打ち合っている。恵(めぐみ)の姿を見つけた誰かが声を上げた。

「おおっ、河村! 元気になったか!」

「メグちゃーん! 大丈夫かー?」

「……メグ……!」

その声に、彼女はゆっくりと微笑み、会釈を返した。

「宇田川先生、皆さん……心配かけて、ごめんなさい」

「一応、退院しました。部活には……来週から参加させてください」

「そうか、それは良かった! でも無理すんなよ」

宇田川が大きく頷いた。

「今日は保健室に寄ってから帰ります。雨宮先生にも、お礼を言いたくて」

「おう、気をつけてな!」

「メグ! 俺も、あとで保健室に顔出すよ」

「ええ。待ってます」

――そのやり取りを少し離れて見つめていた賢二と隆文が、そっとささやき合う。

「メグちゃん、まだ病み上がりだからな。なんか……声がか細くなったっていうか、女の子みたいな……」

「仕方ないよ、長く入院してたんだし。体力もまだ戻ってないだろ」

賢二がニッと笑って言った。

「でも元気そうで良かったよな、コウメイ!」

コウメイは静かに頷いた。

「……ああ……ほんと、良かった……」

(ちゃんと、会話ができてる。……ここや、宇田川先生とも)

(本来なら、初めて来る場所。初めて会う人たちのはずなのに――)

彼の胸には、言葉にできない不思議な感覚がわだかまっていた。

彼女は、確かに“今”を生きていた。彼の友として。そして、ひとりの少女として――。

(つづく)

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