第12話「入れ替わる心」

<保健室>

淡い陽が差し込むはずの窓は、分厚いカーテンで閉ざされていた。保健室の空気は重く、湿っていた。午後の日差しを遠ざけるように、外では雲が空を覆い始めていた。

「急いで!ここに寝かせて頂戴!」

雨宮は保健室のベッドに駆け寄りながら叫んだ。彼女の声には、教員としての冷静さよりも、人としての焦りと不安が色濃く滲んでいた。

「メグ!おい!メグ!」

コウメイが声を荒げて恵一の顔を覗き込む。だが、恵一——いや、今はもうそう呼んでよいのかさえわからない——はうっすらと目を閉じたまま、反応を見せない。

「お願い!少し黙って頂戴!」

雨宮の声が鋭く響いた。感情を抑えようと必死な彼女の瞳が、揺れている。

彼女は恵一の額に手を当てた。燃えるような熱が肌を突き刺す。

「大丈夫?河村君……? 意識が……無い……でも、心臓は……動いてるわ」

「雨宮先生!メグ、足から血が出てるんです!」

「え、足から……血?」

雨宮は慌ててシーツをめくり、恵一の脚を見る。

「あ、ほんとだ……この子……まさか……」

雨宮の声は、ほとんど独り言だった。それでも、その中に含まれた確信と恐怖が、コウメイの胸を刺す。

「悪いけど、全員保健室から出て行ってください!お願いします、宇田川先生!」

宇田川が神妙な面持ちで頷く。「……お願いします。雨宮先生、後は任せます」

扉が閉まり、保健室には雨宮と恵一だけが残された。

「河村君……返事して!……駄目ね……」

雨宮はためらいながらも、恵一の体を検める決意を固める。ベッド脇の引き出しから手袋を取り出し、深く息を吸ってから、そっと恵一のユニフォームをめくり、パンツを下ろした。

——その瞬間、彼女の全身が凍りついた。

「……え、う、嘘……」

雨宮の顔が蒼ざめていく。

「嘘……河村君なの? 本当に……この子が……?」

彼女の視線は恵一の下腹部に注がれていた。

「……ない……あれが……ない……」

「完全に……女性の体に……変わっている……」

指先が震えた。視界がにじんだ。

「この血……もしかして……生理……?」

それは現実を裏打ちするような、生々しい感覚だった。

「いえ……いえ、ありえない! 夏休み前、確かに私、この目で……彼が男であることを確認したのに!」

「なのに!なのに、どうして……」

雨宮は崩れそうになる膝をベッドに支えられながら、呻くように呟いた。

「一体、彼の体に……何が起こっていたの……?」

ベッドの上で、恵一が小さくうわごとのように唇を動かしていた。うなされている。名前も、意味も成さない言葉が、熱に浮かされた意識の底から漏れている。

「……でも、今はこの症状を……」

雨宮は我に返り、額に手を当てる。

「……ダメ。熱が下がらない! ……救急搬送しましょう!」

彼女は電話の受話器を掴み、震える指で119を押した。


<体育館>


ラケットのピン球を打つ軽やかな音が遠くに響く中、体育館の扉が乱暴に開かれた。

「宇田川先生っ!」

扉の向こうから、白衣を翻しながら雨宮が駆け込んでくる。その額には汗がにじみ、息は荒い。

宇田川はすぐに異変を察知し、近づいた。

「雨宮先生。どうですか?河村は……?」

その言葉に、雨宮は一瞬目を伏せた。

「……それが、熱が下がりません。意識も混濁しています。今、救急車を手配しました。」

静かに、しかし確かに震える声だった。

宇田川の顔が険しくなる。「そうですか……。わかりました。自宅へは私が連絡を取ります。」

雨宮は小さく頷く。「……お願いします。」

ふと、雨宮が何か言いたげに宇田川を見る。

「それから……」

「はい? 何でしょう、雨宮先生?」

一瞬、ためらいが彼女の表情を曇らせる。だが、言葉は口の中で霧散した。

「……あ、いえ。何でもないです。」

(こんなこと、宇田川先生に言っても……信じてもらえない……どうすればいいの……)

雨宮の胸には、説明しがたい焦燥と疑念が渦巻いていた。


<保健室前 廊下>


扉の向こうにはまだ恵一が眠る保健室。その前の静まり返った廊下に、コウメイのひとりだけの時間が流れていた。

手には恵一から託された封筒。震える指先で封を切ると、丁寧に折りたたまれた便箋が現れる。

「……落ち着け。落ち着け……。こんな時こそ、冷静になるんだ。」

声に出して自分を励ます。だが心臓は早鐘のように打ち、鼓膜の奥で鳴る鼓動が全てをかき消しそうだった。

彼は深呼吸を一つ、手紙を開き、読み始める。


〈手紙〉

コウメイへ。

この手紙をコウメイが読んでいるということは、きっと俺の身に何かが起こったということだと思う。

ここから書く内容は、俺が見た夢の話だ。いや、夢だと思っていたことが、たぶん……現実なんだ。

コウメイ。もし俺に何かがあって、次に目を覚ましたとき、俺はもう男ではなくなっていると思う。完全に、女になっているはずだ。

信じられないよな。でも、これは事実なんだ。お前が今、目にしている現実が、それを証明しているはずだ。

高校に入学する少し前から、俺は不思議な夢を見ていた。夢の中に出てくる知らない女の子が、いつも同じことを言うんだ。

「私を探して」

ある晩、俺はその子に答えた。「俺が君を探してやる」って。その次の日から、体に小さな違和感を覚えるようになった。

誰にも言わなかったけど、正直、怖かった。けど、目を逸らすことはできなかった。自分の体だから。

そして、夏休みのある夜。また夢を見た。その子は俺にこう言ったんだ。

「私は、あなたと一緒に生まれるはずだった双子の姉。名前は『恵(めぐみ)』」

母さんの胎内にいたとき、俺たちは確かに二人いたらしい。でも四か月目の検診で、もう一人の胎児はいなくなったとされた。

でも、姉さんは生きていた。俺の体と一つになって。

彼女の存在は、ずっと俺の中にいた。意識の奥底で──そして今、彼女は目を覚まそうとしている。

俺の体を、彼女に譲るよ。恨まないでくれ。彼女にも、生きる権利があるんだ。俺には、わかるんだ。辛かったはずだって。

コウメイ、頼む。姉さん……恵(めぐみ)を、支えてやってくれ。彼女は、まるで生まれたばかりの赤ん坊と同じなんだ。目に映るすべてが初めての世界だ。

お前なら、きっと優しくしてやれる。今までのように、あたたかく接してくれると信じてる。

頼んだぞ。コウメイ。

                          恵一より


手紙の末尾には、さらに追伸が綴られていた。



P.S.

この手紙を読んだら、奈々美先輩にこの封筒を渡してくれ。

それから、保健室の雨宮先生にも……。この事態を理解できるよう、読んでもらってほしい。

奈々美先輩と文香ちゃんにも、いずれ必ず読ませてやってくれ。俺の大切な人たちだから。

頼むよ、コウメイ。


言葉が胸に突き刺さる。

ページをめくるたび、紙の質感が指先に伝わる。恵一の筆跡が、不思議と今ここに「彼」を感じさせた。

夢の中の少女のこと。繰り返される「探して」という呼びかけ。——そして、自分の中に存在していた“もうひとりの命”。

読むほどに現実感が失われていく。けれど、それ以上に、確かに感じる「恵一」の声、覚悟、優しさ。

「……姉の恵(めぐみ)に体を譲るって、そういうことか……」

文字のひとつひとつが、魂に触れるように、コウメイの中に染み込んでいく。

彼の目尻に、静かに涙が伝った。



(手紙を読み終えて)


廊下の天井灯がじわりと滲んで見えた。

「……メグ……」

誰にも聞こえないほどの声で、彼はその名を呼んだ。

涙を指でぬぐいながら、彼はゆっくりと顔を上げた。

「お前は……自然の法則に従って、自分の運命を受け入れたんだな。」

胸の奥に残る苦しさは消えない。でも、そこにあるのは悲しみだけではなかった。

「わかったよ。俺も、お前のその気持ちを、全力で守りたい。」

しっかりと両手で便箋を折りたたみ、胸に当てる。

「恵(めぐみ)……姉さん……お前が目覚めるなら、俺がそばにいてやる。コウメイとして。お前の大親友として。」

そのとき、心に宿ったものは覚悟でもあった。

変わっていく世界に、彼自身もまた、一歩を踏み出すのだと。


(つづく)

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