第9話 「自分の想い、人々への想い」

<数日後:卓球部夏季合宿・開始当日>

蝉の声が空に吸い込まれるように響いていた。

夏の太陽がすでに高く昇り、間鳥居高校の体育館は、朝からむっとした熱気に包まれていた。部員たちは、大小の荷物を抱え、汗を額に浮かべながら忙しなく動いていた。

卓球部顧問の宇田川克典――柔和な表情で生徒を見渡すと、手に持ったメガホンで口を開いた。

「はい、今日から卓球部の夏季合宿を行います。予定としては本日と明日の2日間です」

その声に、部員たちのざわめきが一瞬静まる。宇田川は続ける。

「練習計画は、女子の藤岡君を中心に立案してもらっています。男子は1階の空き教室、女子は宿直室と視聴覚室を使って宿泊してください」

「また、保健室には雨宮先生が待機されています。体調不良があれば、各部長に報告し、すぐに利用してください。では今から、宿泊準備を始めてください」

その号令に再びざわめきが戻り、男女それぞれに荷物を抱えて移動しはじめる。

恵一は無言で荷物を抱えたまま、廊下の窓から遠くの空を見つめていた。青い空に白い雲がゆっくりと流れている。けれどその平穏な風景とは裏腹に、彼の胸の奥には不安がじくじくと広がっていた。

「いよいよ始まるな、合宿。なぁ、毎年どんな感じなんだろうな?」

隣から声をかけたのはコウメイだった。相変わらずの快活な口調で、荷物を片手に笑っている。

恵一は少し間を置いて、かろうじて返した。「……ああ、そうだな」

「この合宿で三年生の先輩たちも引退か。なんか寂しくなるな、なぁメグ?」

「……そ、そうだな。寂しくなる……な」

コウメイがじっと恵一の顔を覗き込む。「おいメグ。元気出せって。らしくねぇぞ。自然の法則を丸ごと受け入れるんじゃなかったのか?」

その言葉に、恵一は一瞬だけ目を伏せ、しかしすぐに顔を上げた。「……ああ、そうだな。自然には、逆らえないからな……」

その言葉には、どこか諦めにも似た覚悟が滲んでいた。

<体育館:合宿開始>

ギシッというフロアの軋みと、打球の軽やかな音が、夏の体育館に反響していた。

卓球台の前には次々に部員が並び、熱心に乱打に取り組んでいた。

前に立ったのは女子部長、藤岡純夏。短い髪が額に張り付くほどの汗をかきながらも、その目は凛としていた。

「皆さん、暑い中ご苦労さまです。それでは、今年度の夏季合宿を始めます!」

その声に、全員が「はいっ!」と力強く応える。

体育館の空気が一段と引き締まった。

純夏は練習の合間にふと語りかけるように続けた。

「あなたたちとこうやって練習できるのも、基本的にはこの合宿が最後ね」

「随分、練習して頂きましたよね」

コウメイが隣で冗談めかして笑った。

「なぁ、メグ?」

「あ、はい……とてもいい経験になりました」

恵一の声はかすかに震えていた。自分の中に、刻一刻と近づく“運命”の重さがのしかかっていた。

「城山君や河村君が入部してから、男子卓球部の雰囲気も、私たちのイメージも随分変わったわよね」

純夏がふと振り返ると、奈々美が少し微笑んでうなずいた。

「そうね。あなた達と出会って、もう五か月……ほんと、色々あって、早く感じるわ」

その言葉に、奈々美の視線がふと恵一に向いた。彼女の目には、言葉にはされない想いが宿っていた。

「まさか男子と一緒に練習するなんて考えもしなかったわよね、奈々美?」

「……ほんと……でも……ほんと、色々……あったわね……」

二人のやり取りに、恵一はそっと視線を下ろした。いま自分が背負おうとしている「真実」を、この時間の中でどう伝えればいいのか、その答えはまだ見つかっていなかった。


<夕方:合宿1日目の終わり>


(ピーッ!)

笛の音が体育館に鳴り響いた。

「はい、練習やめ!」

宇田川先生が声を張り上げる。

「本日の合宿1日目の練習を終了します。この後は少し休憩を取り、17時から夕食、19時から女子のシャワー室を解放します。男子は20時から。遅くとも21時までに終了するように」

「では、一時解散です」

体育館にざわめきが戻り、生徒たちはタオルを肩にかけて、それぞれの荷物へと散っていく。

「いやぁ、初日から飛ばしてくるな……な、メグ」

コウメイが汗をぬぐいながら話しかける。

「……ああ。正直、体がボロボロだよ。……でも……藤岡先輩がこのスケジュールを組んだんだろ。……やっぱり、すごいよ、あの人」

「うん、さすが県の強化指定選手だな」

コウメイも同意するようにうなずいた。

そこへ、賢二と隆文の二人が現れる。

「やあ、コウメイ、メグちゃん。こんなとこにいたの?」

賢二が息を切らせながら笑う。

「暑いからさ、教室の中は地獄だもん。ここで涼んでたんだよ」

コウメイが肩をすくめると、賢二がニヤリと笑う。

「ほんと、仲がいいんだな。コウメイとメグちゃんは」

「ケンちゃん、茶化すなって」

コウメイが軽くツッコミを入れた。

「もうすぐ夕食だよ。行こう、みんなで」

四人は並んで歩き出す。夕暮れに染まる校舎の影が、体育館の壁に長く伸びていた。

恵一は歩きながら、その影に自分の姿を重ねる。

――あと二日。

この身体の中に、“何か”が起きる。

胸の奥で、時計の針が静かに音を立てていた。

夕食を終え、女子たちが浴室から戻るころ、夜の山あいに涼やかな風が吹き始めていた。校舎裏手にある木陰のベンチには、二人の少年の姿があった。

「――あれ、城山君に河村君。こんなところで、どうしたの?」

少し濡れた髪をポニーテールに束ね、シャワー上がりのさっぱりとした顔で純夏が声をかけてくる。その顔には、かすかな汗がまだ残っていた。

「あ、藤岡先輩。お疲れさまでした」と、コウメイはすぐに笑顔を浮かべて立ち上がった。「いや、教室、暑いじゃないですか。だからメグと涼みに来たんですよ」

「ふふ、なるほどね。で、他のみんなは?」

「教室でトランプ大会、始めましたよ。すぐに『ババ抜き!』とかって盛り上がってました。うちの部って、やたらトランプ好きですよね」

「あなたたちはやらないの?」

「まあ、嫌いじゃないですけど。今はこっちでのんびりしてたくて。な、メグ?」

となりの恵一――メグと呼ばれる少年は、小さく頷き、ベンチに身を預けたまま空を見上げていた。彼の頬にかかる風が、短く整えられた髪を静かに揺らしている。

「ほんとに、仲がいいのね、二人って」

「いやいや、藤岡先輩と森崎先輩の方がずっと仲良しですよ」とコウメイがいたずらっぽく笑う。

「あ、奈々美?…そうね。たしかにそうかも」

純夏は空を見上げ、少し遠くを見るような目になった。

「私ね、高校に入ってから、この最後の5ヶ月間が――いちばん楽しかった。部活やってて、ほんとうにそう思えたの」

「…なぜですか?」とコウメイが素直に尋ねる。

「あなたたちが入部してきたからよ」

「え、俺たちが?」

「そう。これまでは、女子は女子、男子は男子。練習も、会話も、まるで分断された世界だった。でも、初めてあなたたちとダブルスを組んだ時、心から思ったの。――男子との練習も、悪くないって」

彼女の視線はまっすぐ二人に注がれていた。

「その感覚を教えてくれたのは、城山君と河村君――あなたたちよ」

「そう言ってもらえると嬉しいですよ。なあ、メグ」

恵一は照れ笑いを浮かべながらも、俯きがちに言った。

「でも、俺、下手くそだったし…先輩たちの邪魔ばかりしてたと思います」

「そんなことないわよ。むしろ、あれから河村君、すごく上達した。目を見張るくらいに」

「そうですか……まだまだですけど、もっと頑張ります、はい」

そこへ、柔らかい声がもう一人の少女を連れてきた。

「――あら、みんなここにいたのね?」

現れたのは広美。やさしい微笑みをたたえ、手にはまだドライヤーの熱が残るような気配をまとっていた。

「二人が涼んでるって聞いて、話に混ざりたくなっちゃって」

「もちろん、どうぞ」とコウメイがベンチの隣を指し示す。

「河村君も、大変な学期だったでしょう?」と広美がそっと声をかけた。

「はい。ほんとに色々と…」

「女子の服装も、慣れてきた?」

「まあ、慣れたというか、慣れざるをえないというか…」

「そうね。男の子が女の子の服を着るって、きっと大変なこともあるわよね」

「…はい」

「でも、あなたの真面目に向き合う姿勢、すてきだと思うわ」

「ちょっと広美! それ、奈々美に聞かれたら怒られるわよ!」

純夏が慌てて言ったそのとき――

「何の話? ずいぶん盛り上がってるじゃない、純夏さん」

清涼な声と共に、奈々美が現れた。月明かりに照らされて現れたその姿は、どこか神秘的な気配すらまとっていた。

「お疲れ様です!」とコウメイと恵一が揃って立ち上がる。

「二人とも、初めての合宿、どうだった?」

「正直、キツかったですよ。なあ、メグ」

「はい、もうバテバテです…」

「でも、まだ明日があるわよ? 最終日はもっと厳しいメニューにしてあるから、覚悟してね!」

「……が、頑張ります」

「一応、頑張ります…」

「“一応”って何んだよ、それ!」と笑いながらコウメイが肘で恵一をつつく。

「俺がいるから大丈夫だって!」

「うん、…ありがとう。頑張るよ」

奈々美はそんな様子を愛しそうに眺めたあと、恵一に向き直った。

「河村君、ちょっといいかな?」

「え? あ、はい」

「純夏、広美。河村君、ちょっと借りるね」

「ええ。話したいこと、あるんでしょ」

二人きりで歩き出す。夜風が彼らの髪を優しく撫で、遠くで虫の声が小さく響いていた。

【校庭のベンチにて】

夜の校庭は、静寂と涼しさをまとっていた。風が草をさやさやと揺らし、ほんのりと月光に照らされたベンチに、二人の影が長く伸びていた。

ベンチに腰かける奈々美は、ふっと息を吐くと、小さな声で切り出した。

「ごめんね……。みんなと一緒に話してる時に、急に呼び出しちゃって」

「いえ、大丈夫です。先輩と話せるなら、いつでも」

恵一は首を振り、微笑を返したが、その瞳にはわずかな戸惑いが浮かんでいた。

奈々美はその笑顔をじっと見つめた。月明かりの下、彼の表情はあまりにも純粋で、どこか儚げにさえ映る。

「私ね……あなたに出会えて、本当によかったと思ってるの、河村君」

「え……?」

不意に出た言葉に、恵一の肩がぴくりと揺れる。

「一緒に練習できたことも……もちろん嬉しかった。でも、それだけじゃないの。やっぱり……あのこと、かな」

奈々美はそっと視線を伏せ、膝の上で両手を組んだ。

「……私があなたを女性だと疑ったこと」

「……あのことは、もう……」

恵一は優しく遮ろうとするが、奈々美は静かに首を振った。

「わかってる。あの時は、ごめんなさい。でもね、今となっては、あの出来事がきっかけだったと思うの。あれがなければ、私はあなたとこんなふうに、話す機会も、触れ合うことも、こんなに心を動かされることもなかった」

奈々美の言葉には、にじむような温度があった。感謝と後悔と、そして一抹の哀しさが混ざり合っていた。

「あなたと話したり、練習したり、相談に乗ったり……いろんなことをして、すごく充実してた。部活も、毎日が特別だった」

「……そうですか。俺も……奈々美先輩には、本当に助けてもらってばかりでした。感謝してもしきれないくらい」

恵一の目は、真っ直ぐに奈々美を見つめていた。澄んだその瞳が、月の光を反射して、どこか神聖にさえ思えた。

「いよいよ、明日で引退なのよね。試合がある時には顔出すけど、基本的には……これで終わり」

奈々美は少し笑って、でもその笑みにどこか影が差した。

「寂しくなるなぁ……。河村君たちがもっと早く入ってたら、もっともっと楽しい部活になってたかもしれないのに」

「そんなことないですよ」

恵一は力を込めて言った。

「奈々美先輩が歩いてこられた道は、間違いなんてなかったです。だからこそ、いま女子卓球部を引っ張る立場になってるんです。いままでの努力が、ちゃんと実を結んでる」

「……河村君」

奈々美はその言葉に一瞬、胸が熱くなった。あまりにも真っ直ぐなその想いに、涙が滲みそうになる。

「俺も……寂しくなります。放課後に、奈々美先輩の姿を見られなくなるのは」

「……河村君……」

一瞬、空気が柔らかく揺れた。二人の間に流れる静けさが、どこかあたたかく、胸を締め付ける。

「私ね……卒業したら、進学するんだ」

「そうですか。大学ですか?」

「ううん、看護の道へ進もうと思ってるの。看護師になりたいの」

「看護師……奈々美先輩なら、きっと似合います。白衣も、笑顔も、患者さんの心に響くと思います」

「もう……先輩をおだてるのが上手くなったわね」

「本気で言ってます。ほんとうに、そう思いますから」

「……ありがとう」

奈々美は、小さく微笑んだ。その笑みはどこか照れていて、でも嬉しそうだった。

「でもね、それを決める勇気をくれたのは、あなたなのよ」

「え、俺ですか?」

「そう。あなたのよく言ってる“自然の法則”」

「……自然の法則、ですか」

「『そのままの状況を丸ごと受け入れよ』……たしか、そうだったわよね?降りかかる火の粉から逃げるなって」

「まあ……ある意味、そうです。でも、先輩のその言い方のほうが、前向きでずっといい言葉です。僕のは、『なるようにしかならない』って感じですから。ただ受け入れて、何もしない。抗わない。全てをそのまま受け止めるだけです」

「ふふっ、そうなんだ。でも、そういう考え方……私にはすごく力強く聞こえたのよ」

奈々美は、ベンチから立ち上がり、星の瞬きを見上げた。

「河村君は、河村君の信じる道を進みなさい。私は、私の進むべき道を行く。それを教えてくれたのは――あなたなのよ♥」

その瞬間、恵一の表情が変わった。月明かりの下、彼は真剣な面持ちで奈々美を見つめた。

「奈々美先輩」

「な、なに?」

「今は詳しく言えませんが……明日、俺の身に、何かが起こるかもしれません」

「えっ?どうしたの、河村君……それって、占いか何か?」

「いえ、違います。……でも、詳しくはコウメイに伝えてあります」

一歩、後ろに下がりながら――

「奈々美先輩。俺……先輩のこと、好きでした」

「えっ……あ、あの……河村君、何よ、急に……て……好きでした?」

「ありがとうございました。おやすみなさい」

そう言うなり、恵一は踵を返し、暗がりのなかへと駆け出していった。

「ちょ、ちょっと河村君!……」

奈々美は、伸ばしかけた手を宙に残したまま、立ち尽くした。

そのとき、校舎の影からふわりと人影が現れた。

「……奈々美。いい感じだったじゃない?」

純夏がにやりと笑い、広美が小さく手を振る。

「……コクられた」

「えー!告白されたの⁉︎」

「でもね……“好きでした”って」

「……過去形?」

「そうなのよ!どうなのよ!」

純夏は腕を組み、ジッと奈々美を見つめる。

「……で、あなたはどうなのよ?」

奈々美は、少しだけ頬を赤らめて、月を見上げた。

「……私も、好きになってたかも♥」

「やっぱり……そうじゃないかなって、思ってた」

純夏は優しく微笑み、静かに言った。

「いよいよ、明日で引退ね」

「……うん。正直、もっと部活やっていたい。こんな気持ちになるなんて……最後の最後で」

「私も……同じ」

広美が穏やかに言う。

「さあ、帰りましょ。明日のスケジュールもいっぱいよ」

「はいはい……」

奈々美は、最後にもう一度だけ、ベンチを振り返る。

そこにはもう誰もいなかったが、少年の残した熱が、まだほんのりと夜気に漂っている気がした。

「……おやすみ、河村君♥」

風が優しくその言葉をさらい、夜空へと運んでいった。

(つづく)

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