第15章 PC教室での再会、そしてぎこちなさ

田中悠人が「Kernel_Panic」だった。その衝撃の事実を知ってから、結衣の心は、まさに新しい起動プロセスに入ったLinuxシステムのように、不安定な状態が続いていた。これまで、彼のことを「Linuxの達人」として一方的に尊敬し、頼りにしていた結衣にとって、彼が自分に「好きだ」と告白し、さらに匿名掲示板でその複雑な胸の内を吐露していたという事実は、彼女の心を根底から揺さぶった。


夜が明け、いつもの通学路を歩きながら、結衣は深いため息をついた。今日、学校で田中悠人に会うのが、少しだけ怖かった。彼の顔を見たら、あの告白と、あの匿名掲示板の投稿が、頭の中で鮮明に蘇るだろう。今までのように、平然とPCの話ができるだろうか。いや、きっとできない。そんな予感に、結衣の心はざわついていた。


授業中も、結衣は上の空だった。ノートに書かれた文字は、まるで意味をなさない記号のよう。教師の声も、遠くのBGMのようにしか聞こえない。時折、田中悠人の座る席の方に視線を向けてしまうが、彼はいつも通り、真っ直ぐに板書に向かっている。その姿は、いつも通りで、何も変わらないように見えた。しかし、結衣の目には、もう彼が「ただのクラスメイト」として映ることはなかった。彼の背中、彼の横顔、そして、彼が机に向かって小さく揺らすペン。その全てが、まるで新しい意味を持って結衣の目に飛び込んできた。


そして、放課後。結衣は、やはりPC教室へと足を運んだ。文化祭の音響機材の片付けが残っていたし、何より、田中悠人と顔を合わせるのが避けられない場所だった。扉を開けると、既に田中悠人が、いつもの席でPCに向かっていた。彼のディスプレイには、見慣れたArch Linuxのデスクトップが映し出されている。


結衣は、教室の入り口で、一瞬立ち止まった。心臓が、ドクドクと不規則な音を立てる。まるで、高速で処理されるデータが、熱暴走を起こす直前のような感覚だ。深呼吸をして、平静を装いながら、ゆっくりと彼の席へと近づいていく。


「あの…田中くん…」


結衣は、勇気を振り絞って声をかけた。その声は、自分でも驚くほど、小さく、そして上ずっていた。


結衣の言葉に、田中悠人はゆっくりと顔を上げた。その目と目が合った瞬間、結衣の心臓は、さらに大きく跳ね上がった。彼の瞳の奥には、いつも通りの冷静さと、そして、昨夜の告白を思い出させる、かすかな不安の色が混じっているように見えた。彼は、結衣の顔をじっと見つめ、何か言いたげに口を開いた。


「小野寺さん…」


しかし、彼の言葉は続かなかった。二人の間には、気まずい沈黙が流れた。PC教室には、二人以外誰もいない。静寂の中、キーボードのカタカタという音や、PCの小さなファンの音が、やけに大きく聞こえた。


結衣は、顔が熱くなるのを感じた。きっと、彼女の顔は今、真っ赤になっているだろう。彼の視線に、耐えきれなくなり、思わず視線をそらしてしまう。壁のポスター、窓の外の景色、机の上の埃。彼女の視線は、どこにも定まらない。


「あの…えっと…文化祭の、機材の片付け、だよね…?」


結衣は、無理やり話題を捻り出した。何とかして、この気まずい沈黙を破りたかった。けれど、その言葉は、まるで空回りしているかのように、どこかぎこちなかった。


田中悠人もまた、結衣の言葉に、少しだけ安堵したように見えた。彼もまた、この状況に、どう対処すればいいのか、戸惑っているのかもしれない。


「うん。そう。スピーカーとケーブルを、倉庫に戻さないと」


彼の声も、いつもより少しだけ、硬いように聞こえた。これまで、あれほど自然に交わされていたPCに関する会話が、今では、まるで事前にプログラムされたスクリプトを読み上げているかのように、ぎこちなく感じられた。


二人は、黙々と機材の片付けを始めた。結衣は、スピーカーを抱えながら、時折、田中悠人の様子を盗み見る。彼もまた、普段と変わらない手つきでケーブルをまとめたり、ミキサーを丁寧に拭いたりしている。しかし、その動きは、どこか慎重で、結衣との間に、見えない壁があるかのように感じられた。


結衣の心の中では、葛藤が渦巻いていた。昨夜、彼の匿名掲示板の投稿を読んだ。彼が、どれほど自分のことを想っているか、そして、自分の告白に対して返事ができなかったことで、どれほど不安にさせてしまったか。そのことを、彼にどう伝えればいいのか。謝るべきか、それとも、自分の気持ちを伝えるべきか。彼女の頭の中は、まるでデッドロックを起こしたマルチスレッドプログラムのように、複数の処理が絡み合い、身動きが取れない状態だった。


「…田中くん」


結衣は、再び勇気を出して、彼の名前を呼んだ。彼女は、もうこの気まずい状況から逃げ出したかった。彼の不安そうな顔を見るのが、辛かった。


田中悠人は、振り返り、結衣の顔を見た。その表情は、やはり、結衣が彼に何かを告げるのを、静かに待っているかのようだった。


二人の視線が絡み合った瞬間、結衣の胸の奥から、温かい感情がこみ上げてきた。それは、彼への申し訳なさ、そして、彼への確かな「好き」という気持ちだった。彼が、自分にとってどれほど大切な存在なのか、今、この瞬間に、結衣は改めて痛感していた。


しかし、その感情を、どう言葉にすればいいのか。彼女はまだ、その答えを見つけられずにいた。彼女の心の中にある「プログラム」は、まだデバッグが完了していない。


その時、田中悠人が、そっと口を開いた。彼の声は、いつもよりも少しだけ、優しく、そして、どこか諦めにも似た響きを持っていた。


「…小野寺さん」


彼の言葉が、結衣の心を締め付けた。彼は、何を言おうとしているのだろう。もし、彼が、この告白は間違いだった、と言い出したら? そう考えると、結衣の心は、激しい痛みに襲われた。


PC教室に差し込む夕日が、二人の間に、長い影を落とす。二人の間には、言葉にならない、しかし確かな感情の波が満ちていた。それは、ぎこちなく、不安で、しかし、間違いなく、二人の関係が、次のステップへと進もうとしていることを予感させるものだった。結衣は、自分の心の中に生まれたこの感情と、真剣に向き合うことを、改めて決意した。

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