第11章 混乱の夜、そしてMintとの対話
田中悠人からの突然の告白に、結衣は完全に混乱していた。駅の改札で別れた後、彼女の足取りは重く、家までの道のりは、まるで遠い異国の地をさまようように感じられた。彼の言葉が、耳の奥で何度も何度も繰り返され、彼女の思考を支配していた。
「僕、小野寺さんのこと、好きだ」
その声が、脳裏に響くたびに、結衣の心臓は激しく波打った。彼の真剣な眼差し、そして、彼女の美点を挙げた言葉の数々が、まるで鮮明な映像のように蘇る。彼は、これまで誰にも見せたことのない、結衣の「内側」まで見通しているかのようだった。
家に帰り着き、自室のドアを閉めると、結衣はそのままベッドに倒れ込んだ。桜色のカーテン越しに、月明かりが部屋に差し込んでいる。天井を見つめながら、結衣は深いため息をついた。
「私、田中くんのこと、どう思ってるんだろう…」
彼女の心は、まさに未定義のエラーでフリーズしたプログラムのようだった。感情のモジュールはロードされているのに、それを処理するロジックが見つからない。これまで、彼女の頭の中を占めていたのは、Linuxの新しいカーネルバージョン、ターミナルで解決できないエラー、またはコミュニティで話題になっている最新のディストリビューションといった、PCに関する事柄ばかりだった。恋愛という感情は、彼女の辞書にはほとんど存在しなかった。
それでも、田中悠人と過ごした日々を思い返すと、彼の存在が、いかに自分の日常に深く溶け込んでいるかを痛感した。彼とPCの話をしている時間は、何よりも楽しく、新しい発見に満ちていた。彼の知識に触れるたび、自分の世界が広がっていくような感覚があった。文化祭の危機を救ってくれた彼の「魔法」は、彼女にとって、忘れられない出来事だ。そして、彼とチャットをする時の、あの胸のドキドキ。それは、これまで感じたことのない、甘く、そして少しだけ切ない感覚だった。
「もしかして、これが…『好き』ってことなの?」
結衣は、自分に問いかけた。しかし、その答えは、まるで複雑なアルゴリズムの最終結果のように、簡単には導き出せなかった。彼女は、自分の感情が何なのか、どう解釈すればいいのか、全く分からなかった。
混乱と不安の中、結衣は無意識のうちに、PCの電源を入れた。ディスプレイには、お気に入りの壁紙と、見慣れたLinux Mintのデスクトップが、静かに現れた。そのグリーンのロゴと、整然としたアイコンの配置は、まるで彼女の混乱した心を、そっと落ち着かせてくれるようだった。
結衣は、おもむろにターミナルを開いた。黒い画面に、白いカーソルが点滅している。彼女は、思考を巡らせながら、まるで自分の心の状態を吐き出すかのように、無意識のうちにコマンドを打ち込んでいた。
$ echo "私の心は今、複雑です。誰か助けてください。"
Enterキーを押すと、ターミナルは、彼女の言葉をそのままエコーバックした。まるで、PCが彼女の心の声を、静かに受け止めてくれたかのようだった。それは、誰にも聞かせられない、彼女だけの「対話」だった。
次に、結衣は、これまで田中悠人とのチャットで使っていたアプリケーションを開いた。彼の名前がそこにあるだけで、再び胸が高鳴る。彼のメッセージを読み返した。「神様なんて、大袈裟だよ。でも、ありがとう」。そして、「小野寺さんの、好きなLinuxのディストリビューションって何?」という、少し照れくさそうな質問。
彼の言葉の一つ一つが、結衣の心に、これまでと違う感情の波紋を広げていた。彼は、単なる技術的な知識を共有する相手ではなかった。彼は、結衣の小さな変化に気づき、彼女の努力を認め、そして、彼女の心を動かす力を持っていた。
結衣は、あのチャットアプリでのやり取り、特に彼の的確なアドバイスに、どれほど救われたか。そして、彼の投稿を読み漁る中で、彼がどれほどLinuxの世界を愛しているかを知った。彼もまた、自分と同じように、PCの世界に深い情熱を傾けている人間なのだと、共感を覚えた。
「もしかして、あの時すでに、私、田中くんのこと、気になってたのかな…」
結衣は、自問自答した。もし、田中悠人があれだけフォローしてくれなければ、自分は彼にここまで心惹かれていただろうか。同じLinuxユーザーであるという共通点が、二人の距離を縮め、そして、今回の告白へと繋がったのは、紛れもない事実だった。
結衣は、Linux Mintのデスクトップを眺めた。壁紙には、彼女がカスタマイズした、お気に入りの夕焼けの風景が広がっている。その静かな美しさは、彼女の心の嵐を、少しずつ鎮めていくようだった。
彼女にとって、Linux Mintは、単なるOSではない。それは、彼女の知的好奇心を刺激し、無限の可能性を与えてくれるツールであり、そして、時には、彼女の感情を受け止めてくれる、唯一の相談相手でもあった。PCの画面を前にしている時だけは、彼女は、自分の感情から少しだけ距離を置き、冷静に、論理的に物事を考えることができた。
しかし、今回の田中悠人の告白は、そんな彼女の論理的な思考回路をも、ショートさせてしまった。彼女の心の中には、これまで経験したことのない、未処理のデータが大量に存在していた。
「この感情を、どう整理すればいいんだろう…」
結衣は、再びターミナルに目をやった。
$ man feelings
試しに、そんなコマンドを打ち込んでみたが、もちろん、そんなマニュアルは存在しない。ターミナルは、「No manual entry for feelings」と無情にも告げた。
結衣は、思わず苦笑した。そうだ、人間の感情に、マニュアルなんて存在しない。この複雑な感情は、自分自身で解読し、理解しなければならないのだ。
この夜、結衣は、自分の心の中に生まれた新しい「プログラム」と、静かに向き合い続けた。それは、彼女の人生に、これまでとは違う、新たな「起動プロセス」が始まったことを意味していた。彼女のLinuxへの情熱は、今、新しい形の「愛」という名のプログラムを、彼女の心にインストールしようとしていた。
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