第7章 文化祭前夜のハプニング
文化祭まで、残すところあと一日。学校全体が、まるで巨大な生き物のようにうごめいていた。各クラスでは、最終的な準備が慌ただしく進められ、校舎のあちこちから、トンカチの音、ペンキの匂い、そして生徒たちの賑やかな声が響いてくる。結衣たちの2年B組も例外ではなかった。「呪われた廃病院からの脱出」と題したお化け屋敷は、骨組みが完成し、装飾もほぼ仕上がっていた。残るは、結衣と田中悠人が担当する音響の最終調整だけだ。
「よし、このエリアはもう少し足音の残響を長くして、次の部屋への期待感を煽ろう。で、ここから一気に、例の呻き声を入れる!」
PC教室で、結衣はヘッドホンをしながら、田中悠人に指示を飛ばしていた。彼女の隣には、いつも通り静かに、しかし確かな存在感で田中悠人が座っている。彼の顔には、これまでに見せたことのない、わずかな疲労の色が浮かんでいたが、その瞳は、やはり真剣そのものだった。この数週間、二人は放課後だけでなく、週末も返上して、音響データの制作に没頭してきたのだ。膨大なフリー音源の中から最適なものを選び出し、Audacityで加工し、LMMSでBGMを制作する。その作業は、まるで音のパズルを組み立てるようだった。時には、些細な音のニュアンスで意見がぶつかることもあったが、その度に、お互いの意見を尊重し、より良いものを作り上げてきた。
「結衣、このイコライザーの設定、これで本当にいいの? もう少し低音を削った方が、スピーカーで鳴らした時に、音が割れにくいと思うんだけど」
田中悠人の指摘は、いつも的確だった。彼は、PCの画面上だけでなく、実際のスピーカーでの再生時の音質まで見越してアドバイスをくれる。結衣は、彼のそのプロフェッショナルな視点に、いつも感心させられていた。
「うん、田中くんの言う通りだね! じゃあ、少し下げてみよう」
二人の間には、もはや言葉を多く必要としない、暗黙の了解が成り立っていた。お互いの思考を理解し、補い合いながら、彼らは最高の作品を作り上げようと努力していた。彼らの手元から生み出される音のレイヤーは、確実に「呪われた廃病院」の雰囲気を現実のものに変えていっていた。
時計の針は、夜の7時を回っていた。PC教室には、もう二人しかいない。学校の職員室も、ほとんどの先生が帰り、静けさが支配している。窓の外は、すでに真っ暗で、遠くの街灯が、まるで二人の孤独な戦いを照らすかのように、点々と輝いていた。
「これで、ほぼ全ての音源の調整が終わったね。あとは、最終的なデータチェックと、明日、本番会場のPCに転送するだけだ!」
結衣は、達成感に満ちた笑顔で言った。長かった作業の終わりに、ようやく光が見えてきた。
「そうだね。念のため、もう一度、全データを確認しておこう。何かあってからじゃ遅いから」
田中悠人の言葉は、いつも慎重だった。彼のそんな堅実な部分に、結衣は全幅の信頼を置いていた。
結衣は、最終確認のため、プロジェクトフォルダを開いた。そこには、これまで制作してきた数百もの音源ファイルと、いくつかのBGMファイルが整然と並んでいるはずだった。
しかし、結衣の指がクリックした瞬間、彼女の瞳は凍り付いた。
「え…?」
フォルダは、空っぽだった。何も、ない。
「嘘…」
結衣は、何度もフォルダをクリックし直した。ブラウザを閉じ、もう一度開く。それでも、画面には、どこか虚しげな「このフォルダーは空です」というメッセージが表示されるだけだった。
「音源が…音源が、全部消えてる!?」
結衣の脳裏に、真っ白な霧が立ち込めた。冷たい汗が、背中を伝う。心臓が、耳元でドクドクと不規則な音を立てる。数週間かけて、田中悠人と共に作り上げてきた、あの膨大なデータが、跡形もなく消え去っていたのだ。
「そんな…まさか…」
信じたくない現実だった。文化祭は明日だ。今から、あの全ての音源を再構築するなど、物理的に不可能だ。結衣の顔から、血の気が引いていく。
田中悠人が、異変に気づいて結衣の画面を覗き込んだ。彼の表情も、一瞬にして硬直した。
「どうした、結衣…?」
結衣は、震える声で状況を説明した。
「プロジェクトフォルダを開いたら…全部、消えてた…! どこにもないの…!」
絶望的な状況に、結衣の目には涙が滲んでいた。彼女は、まるで糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちそうになった。これまで、どんな困難にも立ち向かってきた彼女の心が、今、完全に折れそうになっていた。
「ど、どうしよう…! 田中くん! 田中くーん!!」
半ばパニックになりながら、結衣は田中悠人の腕を掴んだ。彼の顔は、普段の無表情からは想像もできないほど、焦りと困惑の色に染まっていた。しかし、彼はすぐに、その混乱を理性で押し殺すかのように、深く息を吐いた。
「落ち着いて、結衣。まず、どこに保存してた?」
田中悠人の声は、少しだけ低くなっていたが、その冷静な問いかけに、結衣はほんの少しだけ、現実へと引き戻された。彼の声は、まるで荒れ狂う嵐の中で、唯一の灯台のように、彼女を導こうとしているように感じられた。
「えっと、ホームディレクトリの『music』フォルダに、『お化け屋敷プロジェクト』っていう名前のフォルダを作って…そこに…」
結衣は、震えながらも、必死に記憶を辿って保存場所を伝えた。彼女の希望は、今、目の前にいる田中悠人、たった一人に集約されていた。彼なら、きっと、この絶望的な状況を打破してくれるはずだ。これまでの「Linuxの達人」としての彼の知識と経験が、今こそ試される時だっ
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