第3章 増えるMint仲間、そして憧れの存在

Linux Mintを使い始めてから数ヶ月が経ち、結衣のPCスキルは格段に向上していた。もはや、OSの動作が重いとか、アプリのインストールに困るといった単純な悩みは皆無だった。むしろ、彼女は積極的にMintのカスタマイズに挑戦し、デスクトップ環境を自分好みに彩ったり、便利なショートカットキーを覚えたりと、その奥深さにどんどん引き込まれていった。


彼女のPCに対する情熱は、もはや隠しようがないほどだった。学校の休み時間やランチタイム、友達との他愛ないおしゃべりの最中でも、ついPCの話に熱が入ってしまうことがしばしばだった。


「ねぇねぇ、葵、聞いてよ! この前、Mintの新しいテーマを見つけたんだけど、めちゃくちゃ可愛いの! しかも、マウスカーソルまで変えられるんだよ!」


親友の佐藤 葵(さとう あおい)は、結衣の隣でサンドイッチを頬張りながら、呆れたようにため息をついた。葵は、おしゃれにも敏感で、SNSの流行りにも詳しい、ごく一般的な女子高生だ。PCにはあまり興味がなく、結衣が熱弁するLinuxの専門用語の半分も理解できていないだろう。


「はぁ〜、またこの話? 結衣ってさ、最近いつもPCのことばっかり話してるよね。もう恋人なんじゃないの、そのミントってやつ?」


葵の軽口に、結衣は少し頬を膨らませた。


「もう! 葵は分かってないなぁ。Mintって本当にすごいんだよ! 軽くて、カスタマイズできて、しかも無料なんだよ!? WindowsとかMacとか、あんな高いお金出すのバカバカしくなっちゃうよ!」


結衣は、熱のこもった口調で力説した。葵はPCのスペックやOSの性能には全く関心がなかったが、結衣が楽しそうに話す姿を見るのは嫌いじゃなかった。むしろ、目の前の親友が、自分の好きなことについて目を輝かせているのを見ると、微笑ましい気持ちになった。


「はいはい、わかったわかった。でも、結衣のその情熱、なんか別のもんに向けたらモテそうじゃん? 彼氏とかさ」


葵のストレートな言葉に、結衣は一瞬たじろいだ。確かに、彼氏という存在は、今の結衣の頭の中にはほとんどなかった。彼女の思考の大部分は、Linuxの新しいコマンドや、未だ解決できていないエラー、あるいは新しいディストリビューションの探求で占められていたからだ。


「別にいいし…PCの方が楽しいもん」


結衣はそう言いながらも、どこかバツが悪そうに視線をそらした。彼女自身、このPCに対する異常なまでの執着が、一般的な女子高生から見ると少し異質なのかもしれない、と薄々感じていた。


そんな結衣に、ある日、意外な形で「Mint仲間」ができた。クラスの隅でいつも静かに過ごしている、田中 悠人(たなか ゆうと)だ。彼は、クラスでも特に無口なタイプで、普段からあまり感情を表に出さない。いつも一人で過ごし、休憩時間も机に向かって何かを弄っていることが多い。周りの女子からは、「暗い」「何を考えてるか分からない」といった評価が多かったが、結衣は密かに彼に注目していた。なぜなら、彼の机の上には、結衣のそれと同じ、見慣れないグリーンのロゴシールが貼られたノートPCが置かれているのを、何度か見かけていたからだ。


ある日の放課後、結衣はPC教室で課題の続きをしていた。すると、田中悠人も教室に入ってきて、結衣の少し離れた席に座り、自分のPCを開いた。彼のディスプレイに映し出されたデスクトップは、結衣のものとは違うディストリビューションだったが、間違いなくLinuxのそれだった。


結衣は勇気を出して話しかけてみた。


「あの、田中くんも、Linux使ってるんだね!」


突然話しかけられた田中悠人は、一瞬、驚いたように肩を揺らし、ゆっくりと顔を上げた。その目は少し戸惑っているように見えたが、すぐにPCの画面に視線を戻し、小さく頷いた。


「…うん」


相変わらずの無口さだったが、結衣は諦めなかった。


「私、Mint使ってるんだけど、田中くんはどれ使ってるの? デスクトップの雰囲気、ちょっと違うから…」


「…Arch Linux」


その言葉に、結衣は内心で驚きを隠せなかった。Arch Linuxは、Linuxの中でも特に上級者向けのディストリビューションだ。全てをコマンドラインで構築する必要があり、非常に高度な知識が求められる。結衣が、ある日「Kernel_Panic」の投稿でArch Linuxの話題を見た時、難しすぎて全く理解できなかったことを覚えている。


「Archなんだ! すごいね! 私、まだMintしか触ったことなくて…Archって、すごく難しいんでしょ?」


結衣の素直な質問に、田中悠人の表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。


「…まぁ、最初はね。でも、慣れれば自由度が高いから」


それが、二人にとって初めての、本格的なPCの会話だった。それからというもの、PC教室で顔を合わせるたびに、結衣は田中悠人にLinuxに関する質問を投げかけるようになった。


「ねぇ田中くん、この前、仮想環境を構築しようとしたらエラーが出ちゃって…」

「…それは、多分仮想化支援機能が有効になってないからじゃないかな。BIOSの設定を確認してみて」


田中悠人の返答はいつも簡潔で、的確だった。彼は、結衣が抱える疑問やエラーに対し、まるで辞書を引くように、正確な解決策を提示してくれた。彼の知識は、まるで底なし沼のように深く、結衣は知れば知るほど、彼のLinuxに対する理解の深さに驚かされた。


結衣は、彼を「Linuxの達人」と密かに尊敬するようになった。彼との会話は、これまで一人でPCと向き合ってきた結衣にとって、かけがえのない時間となった。彼は、これまでの彼女が出会ってきた「Kernel_Panic」のように、まさに知識の宝庫だった。


ある日の休み時間、結衣はPCで新しいプログラミング言語の学習サイトを開いていた。それを見た田中悠人が、ふと結衣の画面を覗き込むように言った。


「…それ、Go言語?」


「うん! なんか、将来性があるって聞いて、ちょっとかじってみようと思って。でも、まだ全然分からなくて…」


結衣がそう答えると、田中悠人は、普段の無口さからは想像もできないほど、スラスラとGo言語の特性や、学習のポイントを話し始めた。彼の口から出てくる言葉は、決して難しいものではなく、結衣にも理解しやすいように、丁寧に説明されていた。


その時、結衣は改めて感じた。田中悠人という存在は、彼女にとって、単なるクラスメイトではない。彼は、自分の好きな世界を深く理解し、その知識を惜しみなく分かち合ってくれる、かけがえのない存在なのだと。彼の言葉の端々から、PCに対する深い愛情と、探求心が伝わってきた。


彼女の心の中で、田中悠人は「Linuxの達人」というだけでなく、もっと特別な存在へと変わり始めていた。それは、まだ明確な形を持たない、小さな憧れのような感情だった。この憧れが、やがて、彼女の日常にどのような変化をもたらすのか。結衣はまだ知る由もなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る