第3章:パン屋と巫女、ぎこちない同居生活

結婚式を終えてから一週間が過ぎた。

形式的とはいえ、ユナとライルは正式な夫婦となった。しかし、二人の関係は相変わらずぎこちないままだった。

朝は一緒にパンを作り、昼は店番を手伝い、夜は別々の部屋で過ごす。会話も最低限で、お互いに必要以上の関わりを避けているような状態だった。

「おはようございます」

いつものように、ユナが工房に降りてきた。ライルは既にパン生地の仕込みを終えている。

「おはようございます。今日も手伝ってもらえますか?」

「はい、もちろんです」

この一週間で、ユナのパン作りの腕は格段に上がっていた。最初こそ失敗ばかりだったが、今では一人でも基本的なパンが作れるようになっている。

「今日は新しいレシピに挑戦してみましょう」

「新しいレシピ?」

「はい。ハーブパンです」

ライルが取り出したのは、村で採れるローズマリーとタイムだった。

「ハーブを練り込むのですか?」

「はい。香りが良くて、村の女性たちに人気があります」

ユナは興味深そうにハーブを見つめた。

「神殿でも、ハーブは使っていました。でも、料理に使うのは初めてです」

「どのような用途で?」

「お香や、薬草として。月の魔法と組み合わせて、人々の心を癒すのに使っていました」

「癒しの魔法」

「はい。でも、食べ物として味わうのは初めてです」

ユナは慎重にハーブをパン生地に練り込んでいく。その瞬間、工房にハーブの良い香りが広がった。

「良い香りですね」

「そうですね」

ライルも少し表情を緩めた。

「ユナは、普段どのような魔法を使っていたのですか?」

珍しく、ライルから個人的な質問をされた。

「主に癒しの魔法です。怪我や病気を治したり、心の傷を癒したり」

「心の傷?」

「はい。悲しみや不安、恐怖などを和らげる魔法です」

ライルの手が一瞬止まった。

「それは、便利な魔法ですね」

「でも、完全に治すことはできません。一時的に楽にするだけです」

「それでも、苦しんでいる人には意味があるでしょう」

「そうだといいのですが」

ユナは生地をこねながら答えた。

「神殿では、多くの人が私の魔法を求めて来ました。でも、私にできることには限界があります」

「限界?」

「魔法で治せるのは症状だけで、根本的な原因は変えられません。本当に必要なのは、その人自身の心の変化なのです」

ライルは黙って聞いていた。

「だから、ここでパンを作っている方が、人の役に立っている気がします」

「パンが?」

「はい。美味しいパンを食べると、人は自然に笑顔になります。それは魔法ではなく、本当の喜びです」

ライルの表情が、少し複雑になった。

「あなたは、魔法よりもパン作りの方が好きなのですか?」

「今は、そうかもしれません」

その時、店の扉が開いた。今日最初の客だった。

「おはよう!」

トムが元気よく飛び込んできた。

「お姉さん、今日は何パン作ったの?」

「ハーブパンです」

「ハーブパン?美味しそう!」

「まだ焼けていませんが、もうすぐです」

「やった!絶対買う!」

トムの屈託のない笑顔に、ユナも思わず微笑んだ。

「トム、今日は学校はお休みですか?」

「うん、今日は休日だから!」

「そうでしたか」

「お姉さん、今度僕にもパンの作り方教えて!」

「私はまだ初心者ですから」

「でも、すっごく美味しいパン作るじゃん!」

ユナがライルを見ると、彼は小さく頷いた。

「よろしければ、今度一緒に作りましょう」

「本当?やった!」

トムが喜んでいると、窯のタイマーが鳴った。

「ハーブパンが焼けましたよ」

ライルが窯を開けると、香ばしいハーブの香りが店内に広がった。

「うわあ、いい匂い!」

トムが目を輝かせた。

「少し冷ましてから食べましょう」

ユナが言うと、トムは待ちきれないという顔をした。

「トム、そんなに急がなくても逃げませんよ」

ライルが苦笑いを浮かべた。その表情を見て、ユナは少し驚いた。ライルが自然な笑顔を見せるのは珍しかった。

「ライルさんは、子供がお好きなのですね」

「特に好きというわけでは」

「でも、トムに対してはとても優しいです」

「子供は素直だからです。大人のような複雑さがない」

「複雑さ?」

「利害関係や打算などです」

その言葉に、ユナは何かを感じ取った。ライルは大人、特に王都の大人たちに対して、何らかの不信感を抱いているのかもしれない。

ハーブパンが冷めると、トムが最初に味見をした。

「うまい!ハーブの香りがすごくいい!」

「よかった」

ユナはほっとした。

「お母さんにも買って帰る!」

トムは二つのハーブパンを買って、嬉しそうに帰っていった。

その後も、何人かの村人がハーブパンを買いに来た。皆、とても喜んでくれた。

「新作ですね。とても美味しいです」

「ハーブの香りが爽やかで、朝食にぴったり」

「ユナさんが作ったの?上手になったのね」

村の人たちの反応を見ていると、ユナは心の底から嬉しかった。自分の作ったものが人に喜ばれるという経験は、神殿では味わったことのないものだった。

昼食の時間になると、客足が途絶えた。

「お疲れ様でした」

「ありがとうございました。今日も手伝ってもらって」

「こちらこそ。とても楽しかったです」

二人で昼食を摂っていると、ユナが口を開いた。

「ライル」

「はい」

「私、まだ家事がほとんどできません」

「必要ないと言ったでしょう」

「でも、せっかく夫婦になったのですから、ちゃんとした奥さんになりたいです」

ライルは困ったような顔をした。

「ちゃんとした奥さん?」

「はい。洗濯や掃除、料理など」

「料理はパンで十分でしょう」

「でも、毎日パンだけというわけにはいきません」

確かに、この一週間の食事は単調だった。パンと簡単なスープ、それに村で買った野菜や肉を炒めたり煮ただけの料理。

「村の女性たちに教えてもらってはどうでしょう」

「え?」

「マリアさんなら、きっと喜んで教えてくれます」

ユナの提案に、ライルは少し考え込んだ。

「それは構いませんが、本当に必要ですか?」

「はい。私は、ここで普通の生活をしたいのです」

「普通の生活」

「神殿では、すべてが決められていました。でも、ここでは自分で選択できます。だから、自分にできることを増やしたいのです」

ライルはユナを見つめた。

「わかりました。マリアさんに相談してみてください」

「ありがとうございます」

その日の夕方、ユナはマリアの雑貨屋を訪ねた。

「あら、ユナさん!いらっしゃい」

「こんにちは。実は、お願いがあって」

「お願い?何でも言って」

「家事を教えていただけませんか?」

マリアは驚いた顔をした。

「家事?料理や洗濯のこと?」

「はい。私、何もできないんです」

「そうなの?でも、パンは上手に作れるじゃない」

「それはライルが教えてくれたからです。他のことは全然」

「なるほど。神殿では、そういうことはしないものね」

マリアは理解を示してくれた。

「もちろん、喜んで教えるわ。いつから始める?」

「明日からでも」

「そうね。じゃあ、まずは洗濯から始めましょうか」

次の日から、ユナは午後の時間を使って、マリアから家事を習うようになった。

最初は洗濯から始まった。

「まず、水の温度が大切よ」

「はい」

「そして、汚れの種類によって洗い方を変えるの」

マリアの指導は丁寧で分かりやすかった。

「食べ物の汚れは油だからお湯で、血液は冷たいお水で洗うのよ」

「なるほど」

洗濯板を使って衣類を洗うのは、思ったより重労働だった。

「最初は大変だけど、慣れれば簡単よ」

「ありがとうございます」

「それより、ライルは何も言わないの?奥さんが家事を覚えることについて」

「必要ないと言われましたが、私がどうしてもと頼みました」

「そう。男性はそういうものね。でも、きっと内心は嬉しいはずよ」

「そうでしょうか?」

「だって、奥さんが一生懸命覚えようとしているのですもの。愛情の表れじゃない」

愛情という言葉に、ユナは少し戸惑った。

「愛情、ですか?」

「そうよ。夫のために何かしてあげたいという気持ち」

確かに、ユナはライルのために何かしたいと思っていた。でも、それが愛情なのかはわからなかった。

「マリアさんは、どのようにしてご主人と結婚されたのですか?」

「私たち?恋愛結婚よ。子供の頃から一緒で、自然に好きになったの」

「恋愛結婚」

ユナには縁のない話だった。

「あなたたちは政略結婚だって聞いたけど、違うの?」

ユナは答えに困った。

「まあ、そのようなものです」

「でも、一緒にいるうちに愛情が生まれることもあるのよ」

「そうなのでしょうか?」

「きっとそうよ。ライルも、最初は冷たかったけど、最近は少し変わってきたじゃない」

「変わった?」

「あなたのことを話すとき、少し表情が柔らかくなるの」

その言葉に、ユナの心が少し躍った。

「本当ですか?」

「ええ。きっと、あなたに心を開き始めているのよ」

翌日は料理を教わった。

「まずは基本的なスープから始めましょう」

「はい」

「野菜の切り方が大切よ。均等に切らないと、火の通りが悪くなるの」

ユナは慎重に玉ねぎを切った。目に涙が浮かんできた。

「あら、泣いてるの?」

「玉ねぎのせいです」

「あ、そうね。私も最初はよく泣いたわ」

マリアが笑った。

「でも、慣れれば大丈夫よ」

ニンジンとジャガイモも切って、鍋に入れた。

「火加減が大切よ。最初は強火で、煮立ったら弱火にするの」

「なるほど」

「時々かき混ぜて、底が焦げないようにね」

ユナは真剣にメモを取った。

「あら、几帳面ね」

「神殿では、何でも記録を取る習慣がありました」

「そう。それは良い習慣ね」

一時間ほどで、野菜スープが完成した。

「味見してみて」

ユナがスプーンで一口飲むと、優しい味がした。

「とても美味しいです」

「よかった。最初は心配だったの」

ユナは安堵した。

その後も、マリアから掃除の仕方、縫い物の基本、家計の管理など、様々なことを教わった。

「家事って、こんなに奥が深いんですね」

「そうよ。でも、慣れれば楽しくなるの」

「楽しく?」

「ええ。家族のために何かをするって、とても幸せなことよ」

「家族のために…」

ユナは改めて考えた。ライルは本当に家族なのだろうか。

一週間後、ユナは基本的な家事を一通り覚えた。

「上達が早いのね」

「ありがとうございます。マリアさんのおかげです」

「あなたが熱心だからよ」

「今度は、私が夕食を作ってみたいと思います」

「素晴らしいじゃない。ライルも喜ぶわ」

夕方、家に帰ると、ライルは一人で夕食の準備をしていた。

「お疲れ様でした」

「はい。今日はマリアさんに料理を教わりました」

「そうですか」

「明日から、私が夕食を作ってもよろしいでしょうか?」

ライルは少し驚いた顔をした。

「大丈夫ですか?」

「はい。練習したいのです」

「わかりました。お願いします」

翌日の夕方、ユナは生まれて初めて一人で夕食を作った。

メニューは野菜スープとパンのシンプルな食事だったが、自分で作ったものをライルに食べてもらうのは緊張した。

「いただきます」

ライルがスープを一口飲んだ。

「どうでしょうか?」

「美味しいです」

「本当ですか?」

「はい。優しい味です」

その言葉に、ユナは嬉しくなった。

「まだまだ練習が必要ですが、頑張ります」

「十分美味しいです。ありがとうございます」

ライルの素直な感謝の言葉に、ユナは心が温かくなった。

「ライル」

「はい」

「私、ここでの生活がとても楽しいです」

「そうですか」

「はい。神殿にいた時よりも、ずっと生きている実感があります」

ライルは黙って聞いていた。

「あなたも、ここでの生活は楽しいですか?」

「楽しい、かどうかはわかりませんが、平穏です」

「平穏」

「はい。王都にいた時のような、政治的な駆け引きや重圧がありません」

「それは良いことですね」

「そうですね」

二人で食事を続けていると、ユナが口を開いた。

「ライル、もう少し私のことを知ってもらえませんか?」

「あなたのこと?」

「はい。神殿での生活や、私がどんな人間なのか」

ライルは少し考えてから頷いた。

「聞かせてください」

「神殿では、毎日同じ生活の繰り返しでした。朝は祈り、昼は勉強、夜も祈り」

「勉強?」

「魔法の理論や、古代の文献の研究です」

「大変でしたね」

「大変というより、退屈でした」

「退屈?」

「はい。毎日が同じで、変化がありませんでした」

ユナは窓の外を見た。

「でも、ここに来てから毎日が新鮮です」

「どのような点で?」

「新しいことを覚えたり、村の人たちと話したり、ライルと一緒に仕事をしたり」

「一緒に仕事を?」

「はい。パン作りのことです」

ユナは微笑んだ。

「一人で何かをするのではなく、誰かと一緒に何かを成し遂げるのは、こんなに楽しいことなんですね」

ライルの表情が少し和らいだ。

「私も、一人でパンを作っていた時より、楽しいかもしれません」

「本当ですか?」

「はい。あなたがいると、工房が明るくなります」

その言葉に、ユナは心が躍った。

「ありがとうございます」

「こちらこそ。良いパートナーに恵まれました」

パートナー。

まだ妻ではないが、確実にライルにとって必要な存在になっているのかもしれない。

その夜、ユナは一人で月を見上げた。

村での生活が始まって、もうすぐ二週間になる。

最初は不安だらけだったが、今では心から楽しいと思えるようになった。

ライルとの関係も、少しずつ変化している。

まだまだ距離はあるが、最初の頃の冷たさはなくなった。

むしろ、お互いを必要とする関係になりつつある。

「いつか、本当の夫婦になれるかしら」

ユナは小さくつぶやいた。

月は静かに輝いているだけだったが、なんとなく微笑んでいるような気がした。

翌朝、いつものようにユナが工房に降りると、ライルが待っていた。

「おはようございます」

「おはようございます。今日は何を作りましょうか?」

「今日は、あなたに任せます」

「私に?」

「はい。好きなパンを作ってください」

ユナは嬉しくなった。

「では、甘いパンを作ってみたいです」

「甘いパン?」

「はい。はちみつを使ったパンはどうでしょう?」

「良いアイデアですね」

二人で相談しながら、はちみつパンの試作を始めた。

「生地にはちみつを練り込みましょう」

「はい」

「それから、表面にも少し塗りましょう」

「美味しそうですね」

作業をしながら、ユナは思った。

こうして二人で一緒に何かを作っている時が、一番幸せだ。

ライルも楽しそうに見える。

もしかしたら、彼も同じ気持ちなのかもしれない。

はちみつパンが焼き上がると、甘い香りが工房に広がった。

「いい香りですね」

「はい。きっと美味しいです」

最初に味見をしたライルは、満足そうに頷いた。

「成功です。とても美味しい」

「よかった」

その日、はちみつパンは村の子供たちに大人気だった。

「甘くて美味しい!」

「お菓子みたい!」

「またつくって!」

子供たちの喜ぶ声を聞いて、ユナは心から嬉しかった。

「また新しいレシピを考えましょう」

ライルが言った。

「はい、ぜひ」

「あなたのアイデアは、いつも面白いです」

「ありがとうございます」

こうして、二人の共同作業は続いていく。

まだぎこちない部分もあるが、確実に息が合ってきている。

そして、お互いへの理解も深まっている。

この調子なら、いつか本当の夫婦になれる日が来るかもしれない。

ユナは、そんな希望を抱きながら毎日を過ごしていた。

村の生活は、神殿での生活とは正反対だった。

毎日が変化に富み、人との繋がりがあり、自分の成長を実感できる。

そして何より、ライルという特別な人がいる。

まだ恋人同士ではないが、確実に特別な関係になりつつある。

ユナは、この新しい人生に心から感謝していた。

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