『月の花嫁はパンを焼く~辺境の村で始まる、魔法と麦のスローライフ~』

漣 

【プロローグ】月の巫女と政略結婚

銀色の髪が月光のように輝く少女は、神殿の最奥で静かに祈りを捧げていた。

「ユナ様」

背後から声をかけられ、ユナは振り返る。そこには神殿長のセレナが、いつもの穏やかな笑みを浮かべて立っていた。けれど今日は、その笑顔の奥に何か重いものが宿っているのを、ユナは敏感に感じ取った。

「セレナ様、どうなさいました?」

「お話があります。こちらへ」

導かれた神殿長室は、普段なら月の光が差し込んで幻想的な美しさを見せるのに、今日は分厚い雲が月を隠していた。薄暗い部屋の中で、セレナは重々しく口を開いた。

「ユナ様、あなたは十八歳になられました」

「はい」

「月神ルナの巫女として、これまで立派に務めを果たしてこられました。あなたの魔法の力も、もはや私たちの誰もが及ばないほどに成長している」

ユナは黙って頷いた。生まれたときから月神の巫女として育てられた彼女にとって、それは当然のことだった。月の光を操り、人々の心を癒し、豊穣をもたらす。それが自分の役割だと信じて疑わなかった。

「そして今、その力が国のために必要とされています」

「国のために?」

「エルデ王国との和平協定のため、あなたに政略結婚をお願いしたいのです」

ユナの心臓が、一瞬止まったような気がした。

「政略結婚、ですか」

「はい。エルデ王国の王子と結婚していただき、両国の平和の象徴となっていただきたいのです。長年続いた国境での小競り合いも、この結婚によって完全に終わりを告げるでしょう」

ユナは窓の外を見つめた。雲の隙間から、わずかに月の光が漏れている。その光は、いつものように彼女の心を慰めてはくれなかった。

「お相手は、どのような方なのでしょうか」

「エルデ王国の第二王子、ライル・エルデリック殿下です。心優しく、民思いの方だと聞いております」

「私は、お断りすることはできないのでしょうか」

セレナの表情が曇った。

「ユナ様、あなたは生まれたときから月神の巫女として育てられました。個人の幸福よりも、民の平和を優先するのが、私たちの務めです」

「はい、わかっております」

ユナは深く息を吸った。十八年間、一度も神殿の外に出たことがない。一度も、自分の意志で何かを選んだことがない。そして今も、自分の人生の最も重要な選択を、他人に委ねようとしている。

「いつ、お嫁入りを?」

「来月の新月の夜です。月神の加護のもと、最も神聖な夜に旅立っていただきます」

一ヶ月。

ユナは小さく頷いた。

「承知いたしました」

その夜、ユナは一人で神殿の屋上に上がった。雲は既に晴れ、満月が天高く輝いている。月の光を浴びながら、彼女は初めて疑問を抱いた。

本当に、これでよいのだろうか。

月神に仕える巫女として生まれ、神聖な存在として崇められ、そして今度は政略結婚の道具として使われる。自分の人生は、いったい誰のものなのだろう。

「ルナ様」

月に向かって、ユナは初めて個人的な祈りを捧げた。

「どうか、私にお力をお貸しください。これから始まる新しい人生で、私が本当に幸せになれるよう、お導きください」

月は静かに輝いているだけで、答えてはくれなかった。


一ヶ月後、新月の夜。

ユナは白い婚礼衣装に身を包み、馬車に揺られていた。エルデ王国への道のりは三日三晩。彼女にとって、生まれて初めての長旅だった。

窓の外を流れる風景は、どれも新鮮で美しかった。緑の野原、小さな村々、澄んだ小川。神殿の中だけで過ごした十八年間では見ることのできなかった世界が、そこにはあった。

「ユナ様、もうすぐエルデ王国の国境です」

護衛の騎士が声をかけてきた。ユナは身を乗り出して窓から外を見た。

「あの、王都はまだ遠いのでしょうか」

「いえ、実は少し変更がありまして」

騎士の表情が微妙に曇った。

「変更、ですか?」

「ライル殿下は現在、王都にはいらっしゃいません。辺境の村で、隠居生活を送っていらっしゃるのです」

「隠居生活?」

ユナは驚いた。王子が隠居生活とは、いったいどういうことなのだろう。

「詳しいことは存じませんが、数年前から王都を離れ、パンローブ村という小さな村で暮らしていらっしゃいます。そちらで結婚式を挙げることになりました」

パンローブ村。

ユナは初めて聞く名前だった。王都での華やかな結婚式を想像していた彼女にとって、それは予想外の展開だった。

「その村は、どのような場所なのでしょうか」

「小さな農村です。麦の栽培が盛んで、美味しいパンで有名だと聞いております」

パン。

ユナは神殿で食べる質素な食事しか知らなかった。パンといえば、固くて味気ない黒パンぐらいしか思い浮かばない。

馬車は小さな丘を越えて、ついにパンローブ村の入り口に到着した。想像していたよりもずっと小さな村だった。石造りの家々が点在し、畑では麦が黄金色に実っている。

「あの建物が、ライル殿下のお住まいです」

騎士が指差した先には、小さなパン屋があった。煙突からは薄く煙が立ち上っており、店の前には素朴な看板が掛かっている。

「黄金の麦」

そう書かれた看板の下で、二人の人影がユナたちを待っていた。

一人は白髪の老人。もう一人は、茶色の髪をした青年だった。どちらも、王子らしい華やかさとは程遠い、質素な服装をしている。

馬車が止まると、老人が近づいてきた。

「ルナリア国の月の巫女、ユナ様ですね。お疲れ様でした。私はこの村の村長を務めております、ガルスと申します」

「はじめまして」

ユナは馬車から降りて、丁寧にお辞儀をした。

「そちらが、ライル殿下でしょうか」

青年は無表情のまま、小さく頷いた。

「はじめまして、ユナ様。私がライル・エルデリックです。ただし、今は王子でも殿下でもありません。ただのパン職人です」

その声は、思っていたよりも冷たかった。

「お疲れでしょう。とりあえず、中で休んでください」

ライルはそう言うと、さっさとパン屋の中に入ってしまった。ユナは戸惑いながらも、後に続いた。

店内は小麦粉の香りで満ちていた。カウンターには様々な種類のパンが並んでおり、どれも美味しそうな焼き色をしている。奥には住居スペースがあるようで、質素だが清潔に保たれていた。

「こちらがあなたの部屋です」

ライルが案内したのは、二階の小さな部屋だった。窓からは村の風景が一望でき、遠くには麦畑が広がっている。

「ありがとうございます」

「一つ、最初に言っておきます」

ライルは振り返ると、ユナを真っ直ぐに見つめた。

「私は、この結婚を望んでいません。政治的な必要性は理解していますが、恋愛感情はありません。あなたも同じでしょう」

ユナは何も答えられなかった。

「ですから、形式的な夫婦として生活しましょう。お互いに干渉せず、自由に暮らしてください。結婚式は来週の日曜日に村の教会で行います。それまでは、村の生活に慣れてください」

そう言うと、ライルは部屋を出て行ってしまった。

一人残されたユナは、窓際に座り込んだ。眼下に広がる村の風景は美しかったが、心の中は複雑だった。

これが、自分の新しい人生の始まりなのだろうか。

月神の巫女から、辺境の村の主婦へ。

そして、愛のない政略結婚の妻として。

窓の外では、夕暮れが近づいていた。どこからか、パンを焼く香ばしい匂いが漂ってくる。

ユナは初めて、自分の人生について深く考えた。

今までは、すべてが決められていた。起きる時間も、食べるものも、祈る言葉も、着る服も。そして結婚相手も。

でも、ここではどうなのだろう。

ライルは「自由に暮らしてください」と言った。

自由。

その言葉の意味を、ユナはまだ理解できずにいた。

下階からは、ライルがパンを焼く音が聞こえてくる。リズミカルな音は、なぜか心を落ち着かせてくれた。

「ここが、私の新しい家なのね」

ユナは小さくつぶやいた。

不安と期待が入り混じった気持ちを抱えながら、彼女は人生で初めて、自分の意志で何かを選択する時が来ることを、まだ知らずにいた。

月が昇り始めた夜空を見上げながら、ユナは明日への第一歩を踏み出そうとしていた。

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