第2話 狂犬はお茶を淹れるのがお上手です
王都から辺境の砦までの道のりは、二週間ほどを要した。
馬車の揺れは容赦なく、道も半ばで舗装が途切れ、岩と泥に変わった。
私がこれから婚約する相手、要塞都市を治める騎士団長は、『血に飢えた狂犬』と呼ばれ恐れられている。
王宮にいた頃から、彼の噂は耳にしていた。
剣一本で戦場を切り裂き、敵味方の死体を踏み越えて進む姿から、そう呼ばれるようになったとか。
……他にも、無口で粗暴。
女嫌いで、礼儀作法も知らない野人のような人物だとも。
正直に言えば、怖くなかったわけではない。
王子と妹の一件で凍てついていた私の心に、久しぶりに芽生えた感情。
それは恐怖と警戒だった。
砦の門をくぐった瞬間、馬車が止まり扉が開かれた。
「――お初にお目にかかる。ゼスティア嬢。……オレが、騎士団長のエルヴィンだ」
低く、よく通る声。
威圧的ではないのに、不思議と抗えない重みがある。
まるで戦場の静寂をそのまままとったような男性だった。
大柄な体格に、重厚な軍装。
無精髭もなく、乱れのない身なりは、粗野というより練度の高い兵のそれ。
目元に刻まれた傷跡が、彼の過去を物語る。
けれどその眼差しに敵意や猜疑の色はない。
ただ、淡々とこちらを見据えているだけ。
(……想像していた狂犬とは、ずいぶん違う)
噂ではもっと荒くれ者かと思っていたが、目の前の彼は無用な言葉を削ぎ落としたような。
狂犬というよりは、静かな猛獣とでも呼ぶべき人だった。
彼は私をじっと見つめ、ハッとしたように瞬きを数回。
「案内しよう」
それだけ言って、彼は私より数歩先を歩く。
背中で語る男という言葉があるが、なるほど確かに、と私は内心で苦笑した。
与えられた部屋は、思っていたよりもずっと清潔で整っていた。
火が入った暖炉、温かい湯の入った湯桶。
そして窓辺には摘みたての野花が、小さなガラス瓶に活けられていた。
これが彼の指示によるものなのかは分からない。
少なくとも、私を丁重に迎える配慮がうかがえる。
(無愛想で、怖い人だと聞いていたけれど……)
第一印象は、ほんの少しだけ覆された。
その日の夕食は、砦の食堂で簡素に取られた。
獣肉のシチューと焼きたての黒パン。
彼は寡黙なままで、食事中ほとんど喋らなかった。
だが席につこうとしたとき、無言で手を伸ばし、椅子を引いてくれた。
それだけのことなのに、私は一瞬、動きを止めてしまった。
「……ありがとうございます」
やっと口に出したその言葉に、彼はわずかに頷いた……ように見えた。
怒っているのか、喜んでいるのか、その無表情からは何ひとつ読み取れない。
けれど妙な気遣いや建前がないぶんだけ、逆に安心できた。
飾らず、飾らせず、ただ静かにそこにいてくれる人。
その不器用な距離感が、むしろ心地よく思えてしまうのが不思議だった。
食後、彼は「明日から砦の案内をする」とだけ告げて席を立った。
礼も世辞も何もない。
けれど、その背中には信頼できる何かがあった。
私は思わず、小さく息を吐く。
(……殿下とは、まるで違う)
頭の中で、自然とかつてのあの人の姿が浮かんでしまう。
彼はよく喋り、よく褒め、甘い言葉を惜しまなかった。
でもそれは全部見せかけだった。
私の努力も忠義も、言葉の裏で簡単に踏みにじられた。
目の前のこの人は、何も言わない。
けれど、その沈黙の奥に、嘘のない何かがある。
(……本当に、変な人)
なのに、なぜだろう。
その無骨さに、ひどく救われた気がした。
こんなふうに感じるのは、いつ以来だっただろうか。
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辺境に嫁いでから、季節がひとつ過ぎた。
この地の冬は厳しいと聞いていたが、砦の中は思っていたより穏やかだ。
火は絶やさず、水は凍らぬよう循環され、兵士たちは規律正しく持ち場を守っていた。
それはすべて、騎士団長であるエルヴィンの采配によるものだ。
寡黙で無骨で、表情の乏しい彼。
だが彼の一言には重みがあり、誰もがそれを信じて動いていた。
私はというと、砦の記録係として、ささやかながら事務仕事を任されていた。
エルヴィンには「何もしなくていい」と言われたが、休むだけというのも中々落ち着かない。
頼み込んで、軽作業ならと許しを貰ったのだ。
私は朝になれば執務室の机に向かい、帳簿を整理し、報告書をまとめる。
王城にいた頃とは比べものにならないほど地味で、けれど心穏やかな仕事だった。
作業に取りかかろうとすると、既に向かいの席にエルヴィンがいて、お茶を淹れている。
無言で、無駄なく、手際よく。
まるでそれが当たり前の習慣であるかのように。
茶葉の香りは、日ごとに違っていた。
兵士たちの話によれば、もともと水ばかり飲んでいた彼が、私との婚約が決まった途端、街で茶葉を買い漁るようになったのだという。
陶器のポットも新調し、侍女に頼み込んで淹れ方を学んだらしい。
きっと、私の好みに合わせたのだろう。
おそらく王都から渡された書類のどこかに、「紅茶が好き」とでも記されていたのだ。
かつて神経をすり減らしていた王城で、ティータイムだけが唯一の息抜きだった。
毎朝、彼は何も言わず、目も合わせず、湯気の立つカップを私の机にそっと置いていく。
その静かな習慣が、優しく胸に沁みる。
いつからか、紅茶の香りで一日が始まることを、少しだけ楽しみに思うようになっていた。
そんなある日、砦に一通の文が届いた。
「……王城からだ」
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