第7章:歪む日常(後半)

♢♢♢




帰宅すると、渚はまたおかしな行動をしていた。


「痒いよ……痒い、痒い……」


今度は全身を掻きむしっている。

手に血が滲み、爪が皮膚にのめりこんでいた。


「っ……なに……しているんだ」


「あっ、おかえりなさい、先生」


そう言って、何事もなかったかのように僕に笑顔を向けた。


「ただいま…」


そういって僕はソファに身体を沈めた。


目を瞑って思考を巡らす。

胸の奥に、ひとつだけ残る引っかかりがあった。


──あの小説の、続きを見ていない。


あのとき僕は、あえて閉じた。

安心したかったからだ。


(でも、もしかして……渚は僕をどう思っているんだろう? 本当は──?)


……そんな不安が頭をもたげた瞬間だった。


ふと、頭の奥に焼きついている光景が浮かんだ。


***


あの夏の夕暮れ──。


薄暗く密閉された音楽室の中で、僕は渚を抱いていた。


渚は声ひとつ上げなかった。

ただ、人形のように僕に抱かれていた。

目はどこか遠くを見つめていて、意志はなかった。


けれど、僕はその静けさを「受け入れてくれている証」と思った。


(君は僕のものになったんだ。僕が光なんだ。)


僕の中にあったのは確かな幸福感だけだった。


渚が何も言わないことを、僕は愛と信じた。


そのときの感覚が、今でも骨の髄まで染みついている──。


***


(……間違ってなどいない。僕は、渚を救ったんだ。)


けれど、それでも。

それでも胸の奥がざわめいた。


(確かめなくては。僕は今も、渚の光であり続けているのか──)


そう思い始めたら、もう止められなかった。


僕は、今日2回目の夜の街を抜けて、また職員室へ向かった。

誰もいない、真っ暗な校舎。

懐中電灯の灯りも、今日は手が震えて安定しなかった。


職員室の扉を開ける。

自分の席まで、無意識に歩いていた。


引き出し──四段目。

そこに手をかけた瞬間。


「……!!」


すでに鍵が開いていた。


誰が? そんなはずはない。

自分以外に知っている者はいないはずだ。


恐る恐る引き出しを開けると、そこに──小説が置かれていた。

きちんと整えて。まるで、「続きを見ろ」と言わんばかりに。


喉が鳴るのを感じた。


(見てはいけない。けれど……知りたい…)


震える手で、ページをめくった。


──


突然、その光が弾けた。

真っ白な液体になって弾けた。


その真っ白な液体が、私の暗闇を

大きく、大きくしていく。


“助けてくれるんじゃなかったの……”


だんだんと、私は暗闇に飲み込まれる。


“なぜ、なぜ私は幸せになれないの”


闇に堕ちてしまう。

光を求めても闇に支配されてしまうのなら。


──もう、いっそこの手で。


私の一生をこの闇に捧げてしまおうか。


──


そこまで読んだ瞬間、全身の血が引いた。


(……違う。これは、違うんだ。僕は──僕は光だ。彼女の光だったはずだ!!)


必死にそう思い込もうとする。


(きっとこれは、“過去の渚”が書いた部分だ。今の渚は違う。僕が救ったんだ。僕が、救ったんだ……!)


──


帰宅すると、恐ろしい光景が広がっていた。


「汚い、汚い、汚れた、汚れてしまった……」


そう言って、キッチンの水場にあったタワシを自分の身体に擦りつけていた。

タワシのところどころに、渚の皮膚の破片がついていた──


ぞくり、とした。

僕はただその異様な光景を息を殺して見つめるしかなかった。

 

そして、その夜。


「暗いよ、怖いよ、ここから出してよ」


そう言って僕にしがみつく渚は、もはや正気の顔ではなかった。


それでも僕は必死に抱きしめ続けた。


──


次の日、学校はさらにざわついていた。


耳を塞いでも、聞こえてくる。


「なーなー、知ってる? 亡くなった人ってさ、あの英語教師ともヤってたらしいよ? ヤバくね?」

「いや違うよ、ほんとうは、何人もの男とヤってたらしいよ」


噂が嘘を含んで何重にも膨らんでいる。


僕の中の理性が、ぷつんと切れた。


「そんなのは嘘だ!!!!」


声を荒げていた。


生徒たちが一斉に僕を見た。


「違う……そんなこと……そんなことはないんだ……」


声が震えていた。

けれどもう止められなかった。


教室を飛び出して、廊下をふらふらと歩きながら、僕はひたすら呟いていた。


「違う……僕が……僕が救ったんだ……光なんだ……渚の……僕は光なんだ……」


狂気の影が、僕の日常を完全に呑み込みつつあった。


──



翌朝、目を覚ますと、リビングから妙な音が聞こえてきた。


カリ……カリ……カリ……。


ナイフで何かを削る音。


僕は飛び起き、リビングへ駆け込んだ。


そこには、壁に向かってナイフを握った渚の姿があった。


白い壁には、すでに何本もの線が刻まれていた。


「渚っ、やめるんだ!」


僕が叫ぶと、渚は振り返った。


その顔は、満面の笑みだった。


「ねえ、あと何日だっけ?」


「……何の話をしてるんだ?」


「8月27日……もうすぐだよね。あの日が。ふふっ」


その目の奥は、恐ろしいほどの狂気に染まっていた。


僕がナイフを取り上げようと近づくと──渚はナイフを持ったまま、すっと腰を落とし四つん這いになった。


そして、部屋の中をぐるぐると這い回り始めた。


「探さなきゃ……探さなきゃ……落ちた私……ここにいるはずなの……」


床を指で撫でながら、まるで何かを探すように、這い回っていた。


僕は言葉を失った。


そんな中、渚はふと立ち上がり、キッチンに向かう。


そこから中性洗剤を取って、勢いよく自分の頭にかけた。オレンジの香りが鼻を刺す。


「私、汚いから、洗わなきゃ…」


僕は震えた声で言った。


「……汚くなんてないんだよ」


液体が髪を滴る、べたつく頭をそっと撫でた。


すると、渚の目からとめどなく涙が溢れ出した。


「ごめんなさい、ごめんなさい…」


「いいんだ…大丈夫だから…頭、洗い流そう…」


僕が彼女をなだめようと、手に触れると、泣いていた顔が突然怒りに満ちた


「どうしてなの!! どうして、私、壊れてないのに!! どうして私を壊してくれないの!!」


叫びながら僕に飛びかかってきた。


僕は受け止めることしかできなかった。


「……渚……大丈夫だよ、僕が、僕がいるから……」


必死に抱きしめた僕の腕の中で、渚は嗚咽しながら何度も言った。


「壊して、壊して、壊して……私を、私を……全部、消して……」



(……違う。違うんだ。僕は光だ。渚を導く光だ……)


そう、何度も心の中で唱えていた。


だが、その言葉はもう、どこか空虚に響いていた。


──


翌日、職員室にいると、またあの声が耳に入った。


生徒たちの噂話。


「最近さ、音楽室に幽霊出るって噂になってるんだけど」


「え!それって二股して亡くなった子?」


「そうそう。膝から下のない女がピアノの前に立ってるんだって」


「いや違うって!音楽室の窓の前に立ってるんだって!」


「ねえでもおかしくない?屋上から飛び降りたって言われてなかった?なんで音楽室なの?」


「わかんない、でも音楽室に出るって」


「実は、音楽室から飛び降りたんじゃないの?」


「もしかして、自殺じゃなくて他殺なんじゃ…」


その瞬間だった。


──僕の中でまた何かが弾けた。


「違う!!!!!!!!」


怒声が職員室中に響き渡った。


同僚教師、生徒、全員が僕を振り返る。


息が荒い。拳が震えている。


僕はそれ以上、何も言えなかった。


震えたまま、自分の席に座り込んだ。


(違う……違うんだ……渚は……僕は……)


自分でも、もう何が本当なのか分からなくなりそうだった。


──


帰宅すると、渚は床に正座していた。


「先生……音楽室、行こうよ」


僕の心臓が跳ねた。


「……なんで……そんな……」


渚は、あの頃とまったく同じ微笑みを浮かべていた。


「だって……音楽室は、私たちの特別な場所だよ? ねえ……覚えてる? 音楽室で……先生が、初めて私に行動で愛を教えてくれたの。すごく、すごく嬉しかったんだ……涙が出たんだよ」


──いや、違う。

僕が初めて愛を行動で示したとき、君は恐怖に染まって、音楽室から飛び出していったじゃないか──


けれど渚は、うっとりとした目で続けた。


「先生から借りた小説、一緒に読んだよね。あれ……恥ずかしかったんだよ」


──そうだ。

確かに僕が図書室から官能小説を借りて──音楽室で──小説を一緒に読んだ。


──いや違う、あれは「読んだ」のではない。

あのとき僕は、彼女の心を、自我を、犯したのだ。


***


カーテンを閉め切った音楽室は、沈んだ闇に包まれていた。

昼間とは思えない、ねっとりとした蒸気が漂っていた。


防音のために窓は全て閉じていた。空気はこもりきりで、汗と埃と少女の体臭が充満していた。


僕はページを開きながら、自分の股間が痛いほど膨張していくのを感じていた。

指先は冷たく汗ばんでいた。


「せ、先生……やっぱり、これ読むの、やだ……」


「大丈夫。渚、これは君のためだ。愛を知るって、こういうことなんだよ」


僕は声を低く、甘く響かせながら、主人公の台詞を読み上げた。


渚は震える声でヒロインの台詞をなぞった。


その震えが、僕の鼓膜を甘く焦がした。


声が詰まり、すすり泣きに変わるたび、僕の喉はからからに渇いていった。


──この音、この涙の匂い、この小さな体の熱……


僕はページを捲る手を止めた。


「……渚。もう台詞はいらない。君自身の声を……もっと聞かせて……」


僕は肩に手をかけた。

細い肩がびくりと跳ねた。


「や、だ……せんせ……」


「怖がっていいんだよ。愛は怖いものだから。だから……壊れるほど愛されることが、本当の救いなんだ」


僕は彼女のスカートをめくり上げ、太ももに舌を這わせた。


少女の肌の塩味と、恐怖の汗が混じった味が、僕の舌を痺れさせた。


渚の指はピアノの蓋にかろうじてかけられ、爪が白くなっていた。


「やだ……やめて……やめてよ……」


だが僕は止まらなかった。止められるわけがなかった。


ピアノの黒光りする蓋に映った僕の顔は──もう獣だった。


血走った目。

歪んだ口元。

舌の先で少女の涙を啜りながら、僕は笑っていた。


「泣いてもいい。泣きながら……悦べばいい。僕が……壊してあげる」


渚の声はかすれて、空気を引っ掻くような悲鳴に変わっていた。


僕は彼女の声に陶酔しきっていた。


愛している。

この涙、この絶望、この震えこそが……僕が彼女に与えるべき光なのだ。


(僕が光だ。僕だけが、闇の中の君を導ける……)


僕は彼女の涙を舐め、鼻水を吸い込み、すすり泣く口に舌を差し入れた。


舌が触れ合った瞬間、少女は小さく痙攣した。


だが僕は、その痙攣すら愛おしく思えた。


理性などとうに崩れ去っていた。


やがて彼女は僕の腕の中で力尽き、虚ろな瞳で僕を見上げた。


「せんせ……わたし……わたし……こわい……いたい……でも……せんせ……」


そのときの、濡れた瞳の光──あれが今も脳裏に焼き付いている。


***


そして今。


渚は僕の前で、あのときと同じ声色で微笑んでいた。


「先生……また……あのときみたいに、愛して……ねえ……」


その目は潤みきり、頬は紅潮していた。

まるで壊れた人形が幸福な愛を乞うように。


「だって……あのとき……すごく……すごく幸せだったんだよ? 涙がいっぱい出たけど……嬉しかったの……だからまた……ね?」


──違う。

君はあのとき、泣き叫んでいたじゃないか。壊れていったじゃないか。


だが今、君の中ではそれが「幸福な愛の記憶」として書き換わっている……


(でも……それなら……僕は……君を愛し続ける……僕が光なんだ……)


しかし耳の奥では、噂話がリフレインしていた。


「本当は殺されたんじゃないかって……」


僕の額から冷たい汗が止めどなく流れた。


もう……限界が近づいていた。

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