第5章:彼女が書いていた小説

僕と渚が愛し合う日々は、穏やかに続いていた。

先生としての仕事も、変わらず続く。


きっと、周囲の目にはこう映っているだろう。

愛する妻がいて、彼女のために真面目に働き、真っ直ぐ家に帰る──そんな理想的な男。


でも今日は、少し様子が違った。


いや、家には真っ直ぐ帰るつもりだった。

ただ……渚のことばかり考えていたせいで、仕事が山積みになっていた。


「遠野先生、今日は残業ですか……僕もなんですよ……まあ、先生が定時で帰った昨日も、僕は残業だったんですけどね」


うなだれた山本先生が、僕にぼやくように話しかけてくる。


「ほんと、回らないですよねこの仕事。一人一人に向き合わなきゃいけないし、大変で……」


彼はため息をつきながらも、ふと僕の顔をじっと見て、首を傾げた。


「でも遠野先生、なんか最近明るいですよ。生徒たちの間でも噂になってます。『先生、彼女できた?』って」


しまった、そんなに顔に出ていたのか。


「まあ、ちょっとね」


「えー、やっぱり! なんか納得です。……あの、昨日も僕、ずっと残業だったので、今日は先に帰らせてもらってもいいですか? 一睡もしてなくて、もう限界で……」


「もちろん。昨日は僕が早く帰らせてもらったし、その分の恩返し。今日は僕がやりますよ」


「ありがとうございます!ほんと助かります!彼女さんにもよろしく!」


山本先生は、弾んだ足取りで職員室を後にした。

静かになった室内に、冷房の低い音が響いている。


──渚との時間が減るのは、正直つらい。

でも、彼女のためだ。働こう。ちゃんと、誠実な夫でいよう。


僕は自分のデスクに向かい、山本先生の分の資料を探し始めた。


「えっと……あのファイル、どこだったかな」


手探りで引き出しを開けようとしたとき、カラン、と黒く小さなものが床に落ちた。


鍵だ。


四段目の引き出し。鍵をかける習慣はなかったが、なぜかそのとき、試してみたくなった。


カチャリ。


開いた引き出しの中には、書類やプリントが雑多に詰め込まれていた。その奥に、一冊のノートが目に留まった。


それは、誰かが綴った自作小説だった。


ページをめくると、手書きの文字が目に飛び込んでくる。



私は愛というものがわからない。

愛とは何か。壊したいと思うことか。

轆轤(ろくろ)の上でカタチを変えることか。

無性の愛を浴びる雛鳥のように。

そんな一匹の雛鳥が巣から落ちても

親鳥は構うことなく他の生きている雛鳥に

餌を運び続ける。

下に落ちている雛鳥は私なの。


「いいな、みんなはお母さんに愛を貰っていて、私はそれを見上げるだけ。

誰か私を──────




ガラガラッ!


突然、職員室のドアが開いた。


驚いて振り返ると、警備員が懐中電灯を持って立っていた。


「これはこれは失礼しました。どなたかまだ残ってるかと思いまして。お仕事お疲れ様です。

……お帰りの際には、電気、忘れずお願いしますね」


ぺこりと頭を下げて、警備員は足早に廊下へと戻っていった。


再び視線を小説へ戻す。



「先生、教えて。

 私、自分の気持ちを言葉にするのが苦手なの」



そのときだった。


職員室の静寂の中、まるで誰かが耳元で囁いたかのように、

小鳥のさえずりのように透き通った声が、ふっと聞こえた。


僕は凍りついた。


これは──渚の声だ。


でも、ここに彼女はいない。

僕は今、確かに一人だったはずだ。



どうする、湊。

声が幻なら、それはただの疲労かもしれない。

でも、もし“記憶”だったとしたら──


あの夜、彼女が差し出したのは、たしかに“自作の小説”だった。

あれも、これと同じだった気がする。


ページを捲る手が、震えていた。

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