第一編 文学的内容の分類

第一章 文学的内容の形式

文学的内容の形式は(F+f)


『文学論』を冒頭の一文から見ていきます。よろしくお付き合いください。


   *


『文学論』の一番最初には、ドーン! と、こんな風に書いてあるんです。


「凡そ文学的内容の形式は(F+f)なることを要す。Fは焦点的印象または観念を意味し、fはこれに附着する情緒を意味す。」


いきなりこれを読まされて、「あ、なるほどね」とかって納得できる人がいたら、その人は、エスパーかなんかだと思う。


ぼくはすでに一回『文学論』を通して読んだから、いまならこれが何を言っているか、けっこう分かる。分かってると思う。分かっているということにしておいてください……。


漱石さんがFに込めている意味って、かなりややこしいです。


漱石さんが、わざわざFなんていう記号を使ったのは、他の言い方だと、その言い方ごとに意味が限定されてしまって、漱石さんがFに込めたいと思っている意味の全体を覆い尽くせないからだと思うんです。


Fがなんなのかっていうのは、この『文学論』という本の全体を通して説明されます(説明され続けます)。だから、はじめて冒頭を読んだ時点では、Fが何なのかよく分からないっていうのは、それはもう仕方ないんです。


この冒頭の一文は、何かを説明している文っていうより、「謎」として提示されている文なんだと思った方がいいんだと思います。だから、最初は「なに言ってるのか分からない……」って感じるのが、まったく正しい反応なんだと思うんです。


その一方で、fの方なんですけど。


こっちは、わりと分かりやすい! Fがなんであれ、とにかくそれに伴って起きる情緒・感情のことで、冒頭の文の直後には、情緒的要素(f)という言い方もされてます。


Fのイメージって、『文学論』を読み進むにつれて拡張されていく感じがありました。これもF、あれもF、さらにはこういうこともF、というように。それに対してfのイメージは、この最初の、「Fに附着する感情のこと」っていう理解から、そんなに遠くに行かない感じがしました。


そういう意味で、Fを理解するよりは、fを理解する方が易しい、という感触があります。


   *


この冒頭の一文ですでにはっきりと言われていて、この一文を読むだけで理解できることが一つはあるんです。


それは、「文学的内容は(F+f)という形をしているよ」っていうことで、これは要するに「文学的内容はFだけとかfだけじゃなくって、(F+f)だからね」っていうことなんです。


ある文が文学的かそうでないかを分けるのは、漱石さんの理論だと、それが(F+f)の形になっているかどうかなんです。


それで漱石さんが、Fしかなくってfを伴ってないから、こういうのは文学的な文とはいえないって考えているのはどういう文かっていうと、たとえば、「三角形の内角の和は百八十度である。」といったような文なんです。


文学って、真とか善とか美に関わるものだっていうのが、漱石さんの大前提だと思うんです。それで、「三角形の内角の和は百八十度である。」という文は、真には関わっているわけです。でも、真を写しているからといって、その文が文学といえるかっていうと、この場合はいえないんです。どうしてかっていうと、この観念(F)には情緒(f)が伴ってないから。


逆に、情緒(f)だけが書かれた文があったとしたら、それも漱石さんの理論でいうと文学にならないはずなんです。なんですけど……。


   *


毎回千字くらいを目安にしているので、今回はここまでにしておきます。次回は「意識の波」の話になるかなって思ってます。次回もよろしくお願いします。







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