第八話
わたしの気持ちが、少し落ち着いて。
彼の心臓の鼓動が、ほんの少し聞こえるくらいまで。
彼から離れて、しまったら。
もう二度と、この熱に触れることはないのだろう。
でもその選択をするのは、わたしだ。
そうしないと、失恋の幕を下ろせない。
だから海原君は、わたしの願いどおり。
……『そのまま』で、待ってくれているのだろう。
ゆっくりと、顔を上げながら。
彼の体温が離れていくのを、感じながら。
そして、再び涙を流しながら。
……わたしは彼から、離れていこう。
涙を拭って、必死になって。
わたしは大好きだった彼を、まっすぐ見て。
そのうしろに見えるであろう、大きくて青い空の美しさに負けないように。
「最高の失恋の思い出が残りました。ありがとう」
笑顔で一度、そう伝えてから。
お辞儀をして、再び瞳にたまった涙を。
きっちりと、床にすべて落とせばいい。
それから、そのあとは。
笑顔だけを、ずっと。
海原君に、見せて終わればいい。
そう決心したつもりの、わたしは。
なにもいわずに、待ってくれている海原君に。
ようやく向き合える気がして、ゆっくりと頭を上げて。
どうにかして、笑顔で。
無理してでも、彼を見つめようとした。
はず、だったのに……。
わたしの意地の作り笑顔は、一瞬にしてはがれ落ちて。
……本当に、笑ってしまった。
「うわぁ。なにそれ……?」
思わず、わたしが声に出してしまうのほど。
彼のシャツは、あちこちが濡れていて……。
それで海原君は、固まっていた。
「ごめんね、涙でいっぱいで……」
「い、いえ……」
「えっ? でもこれ……もしかしてわたしの、オデコの汗?」
「ええっ……」
「じゃあこっちは……。キャァ〜。鼻水かも!」
「う、ウソですよね……。そこが、一番冷たいんですけど……」
もう!
妙にリアルな感想とか、このタイミングで口にしないでよ。
「ちょっと! 女子高生の涙と鼻水なんて、無料なのはいまだけだよ!」
「え、ええっ……」
「それだけ泣かせた、海原君のせいだからね!」
テンションの壊れたわたしは、もう一度笑ってしまって。
それから、完全に乾くまではここから動かないと。
勝手に宣言してから、また笑ってしまった。
「……ねぇ。帰ったら、ちゃんと漂白剤につけてから洗ってよ?」
「帰るって……。まだ随分先ですよ。それまで、このままなんて……」
「だって、仕方ないよ」
「いや、でも。鼻水ですよ!」
「ちょっと、なんかすごく失礼じゃない?」
「えぇっ……そんなぁ……」
情けないくらい、困り果てた顔の彼を見て。
ふとわたしは、どうして海原君に恋したのか考えた。
でも、その前に……。
きちんとしておかなければ、ならないことがある。
「……ねぇ、海原君?」
真面目な声のわたしに、彼は一瞬戸惑ったような顔になる。
「
ところが、なにか予想とは違った話しだったのか。
「あぁ、『それ』ですか」
少し、ホッとした声を出した海原君は。
意外に、はっきりとした口調で。
「それはダメです。僕がご案内したので、怒られてもちゃんと理由を説明します」
わたしに、そう告げた。
ちょうどそのとき、気持ち強めの風が流れて。
わたしの前髪を、軽く斜めに流してくれたので。
おかげで、『視界』がなんだか。
……広く、なった気がした。
……たぶん、わたしが恋した理由は。
『そういうところ』とか、なんだろう。
海原君は、きちんと月子のことも。
わたしのことも、考えてくれている。
だから自分の言葉で、どれだけ怒られようが説明する。
決して人のせいには、しないんだ。
まぁ、その妙な使命感は。
恋愛感情的には、ちょっと複雑なのだけれど。
でもわたしは、やっぱり。
……って、あれ?
これじゃ、もしかして。
わたし、まだ諦めてないってこと?
「……
ちょ、ちょっと海原君!
こういうときだけ、わたしの表情に気づくのやめてくれない?
照れ隠しに、わたしは。
「『振られた』直後に、聞かされるのもなんだかさぁ〜」
いまは月子のことを、これ以上考えるなと。
わたしがいい出したのに、矛盾したことを。
伝えようと、したのだけれど。
「あの……。それでですね、都木先輩……」
珍しく、海原君が照れくさそうな顔でわたしを見てきて。
「ん? なぁに?」
「だいぶ話しを、戻すことになるんですけれど。あの、僕は……」
……えっ?
この展開、確か前にも……。
「ちょ、ちょっと待って、海原君!」
れ、れ、冷静になろう。
わ、わたし。
ここになにしにきたの?
失恋したんだよね、わたし。
……でも。
なにがあって、失恋したことになってるの?
わたし、なにかいった?
それとも、わたし。
なにか、確かなことでも。きちんと、聞いた?
……屋上に、連れてきてもらって。
「思い出の場所なんだね」
そこまでは、事実なのだけれど。
「確かななにかを、残したかったんです」
海原君は、そういって。
「だから、僕は……」
なにかを、説明しようとしてくれたのに。
「もう、いやっ!」
ま、また……。
わたしが妄想して、暴走して。
ひとりで『勝手』に、失恋したことにしたってこと……?
「……か、乾いたから戻ろうか?」
「えっ?」
ま、またわたしは……。
今回も、盛大に一人芝居をしてしまったようだ。
……ただ、今回。
少しだけ、違ったことがあって。
「も、戻るんですか?」
「えっ? じゃぁ。な、なにか『ハッキリ』と。わたしに伝えたいことがある?」
そう質問した時の、海原君のその顔は……。
……なにか、あるんだ。
それだけは、わかった。
……どうしよう。
いままでわたしは、海原君の気持ちを聞いてこなかった。
一方的に、好きだといって。
一方的に、告白して。
きょうも一方的に失恋したつもりで、泣いただけだ。
恋に落ちた。
告白した。
そしてようやく、気づいて、しまった。
でも、どうしよう。
……気づいただけで、終われるの?
「か、帰るよっ!」
「え?」
「ま、また話そう。ね?」
……それで、いいんですか?
明らかに、そんな顔をしている海原君に。
口には出さないけれど、教えてあげる。
君のその顔、少なくともわたしのこと。
いますぐ『終わり』にするつもりなんて、ないよね。
というより、海原君。
……わたしのこと、実はちょっと。
好き、なんじゃない?
だだ、どんな好きかはまだ聞かない。
うん、それできょうは十分だよ!
……懐中電灯代わりの、スマホのライトが。
屋上からの帰りも、役に立った。
「ねぇ海原君。屋上と非常階段のあいだが真っ暗なんて、おかしくない?」
「そもそも、避難が前提じゃないんじゃないですか?」
「えっと、どうしてそう思うの?」
「だっていつも、真っ暗で見えないんですよねぇ……」
「えっ?」
「……はい?」
そういえば、月子も海原君も。
スマホ、持ってないよね……。
じゃぁ、いったいどうやって。
この暗い中をふたりで、一緒に進んだの……?
……う〜ん。
妬けそうだから、考えるのをやめよう。
それにさぁ、海原君!
なんか守るべき一線とか、ちゃんとあるクセに。
女の子には、最後まで気を抜いちゃダメだよ!
……重たい扉を、ゆっくりと閉めて。
鍵を確認している、彼のうしろ姿が。
たまらなく、愛おしかった。
高校生活最後の、文化祭。
わたしのために、海原君は。
大きな空を、用意してくれた。
……そうか、そんな『確か』なものを。
わたしたちは、共有できたんだ。
……本当に、ステキな時間を。
わたしのために、ありがとう。
「……ねぇ海原君、知ってる?」
早く。
早く、ふりかえってよ!
このとき、わたしは。
これまでで、絶対に一番だと自信を持てる。
最高の笑顔で、彼を見た。
「女の子って、特別が大好きなの。だから、ありがとう!」
そして、そのとき。
海原君の、その顔が。
……いままで一番赤くなったと、確信した。
「わたし、講堂に戻るね」
だから、海原君は……。
覚悟を決めて、月子に怒られてきて。
「し、失礼します……」
そう答えながら、まだ少し顔の赤い。
彼を見たときの、わたしの本音を教えよう。
……恋するだけでは、終われない。
それから、もうひとつ。
もう、この先。
絶対に。
気づいただけでは、終わらない!
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