16.アベイルの街

 つま先が蹴りつける地面が、瘴気のからむ苔生した道から、徐々にクリーム色の石畳に変わっていく。

 その先にあるのはゴールでも何でもない。

 ただの、一つの街。


 雨歌は、前を歩く男の背中ごしに、視線を空に向ける。

 西の空に、焼けたような光が浮かんでいた。

 もうその太陽はかつて雨歌が森で見たような、あの禍々しい紫と、オレンジ色の入り混じったそれではない。


 日が沈みかける時間。

 橙に染まった雲の下、アベイルの街の門が、まるで石の牙のようにそびえている。


 街に入る前の検問所では、見たことのない珍しい髪色の人々や、馬によく似た8本足の生き物が荷台を引く馬車や、順番待ちをしている間にケンカを始める戦士風の人たちを見て、雨歌はこの世界に来て初めて、「知らない場所に来た」と思った。

 人もいて、喧噪も聞こえて、パンを焼くような匂いや、ちょっと焦げ臭い金属みたいな香りがする。

 ザナルの墜森にいた時よりもずっと賑やかさを感じさせるものなのに、ここにいる誰一人として、自分を知らないと思ったとき、雨歌はふいにひどく遠くに来たような気がした。


「雨歌、アンタに預けてる荷物には金目のものは入れてねぇけど、あんた絶対スリに狙われるからな。荷物全部かせ」


 そういって雨歌をここまで連れてきた男__シンフィルは雨歌の返事を待たずに雨歌から荷物袋を奪った。

 彼の横に控えるルーガンですら、首にシンフィルの魔術関連の薬草や呪具一式を一枚布にくるんで首に巻いて運んでいるというのに、魔獣よりも役に立たないと言われたようで、背中が寒くなった。


「だいたい、アンタさっきから隙だらけなんだよ。見られてんの分かってんのか?あの門番の横にいたダッセェ戦士風の男、ジロジロ見やがって。そんなみっともないボロボロの服着てるからだな。街に入ったら、まず服だな、そんで飯、あ__宿が先か。久々に風呂に入りてぇしな。でかい__何人ででも入れそうな風呂がついている宿にしような。なぁ、雨歌?」


 都会に久しぶりに触れて気分が盛り上がっているのだろうか。

 シンフィルはいつもよりもやたらと饒舌になりながら、検問所の列には並ばずに、その横をスッと通り抜けようとした。

 当然、気づいた門番が止めようと手を伸ばし、しかしシンフィルが無言で、腰に佩いている剣の鞘にぶら下げた赤い房飾りをちらりと見せると、慌てたように頭を下げ引いてゆく。

 雨歌もそれに慌てて続き、なんだか申し訳ないのでぺこりと頭を下げた。

 門番のひとりが今、気づいたかのように雨歌をまんまるな目で見つめ、その後無遠慮な視線がつま先からつむじまで這いまわるのを雨歌は無感情でやり過ごす。


 ふいに。

「__チッ」


 というう舌打ちとともにぐいとシンフィルに腕を引っ張られ、門をくぐってからしばらくはそのまま腕を掴まれたまま歩く羽目になった。


「きみって、その、えらいの?」


 さっきの門番の様子がなんとなく気になって尋ねると、

 シンフィルの唇が、すこしだけ吊り上がった。


「あの赤房、見たろ。俺にしか支給されてねぇんだよ、瘴獣殲滅隊の無法級は。今夜会う予定のヴィルトも、王宮騎士団のトップで有名だが、美形ってことを加味すれば俺に軍配があがっちゃうな」


「……そういう立場の人だったんだ」


「……なに急に。今さら?」


「うん。えらい人なのかどうか、よく分かってなかった」


「知らなくていい。アンタが俺を信じてついてきてんなら、それで充分だろ?」


 そんな会話をしつつ、街に入ったとたん。

 世界の密度が変わった。

 街に入る前に感じた喧噪はさらに大きくなっていく。

 道の両端に並ぶ屋台からは香ばしい肉を焼く匂いや、香水を売っているのだろうか、軒先に様々な乾燥草花をぶら下げている店が調合する、甘ったるい香りが歩くたびにまとわりつく。

 魔術で空中に浮きあがる、色とりどりの看板の文字は雨歌が見たことのない形をしていて、全く読めない。

 ルーガンの足の爪が石畳を蹴る音も軽やかで、耳に心地いい。

 夕陽はアベイルのクリーム色の石畳に反射してオレンジの光で足元を照らしていた。

 

 __描きたい。この空気、色、湿度、音を。

 右手がうずうずするが、今はどうすることもできない。

 スケッチブックはシンフィルに絵を渡すときにスケッチブックごと奪われてしまった。

 もともと、彼に描いた絵の一ページが最後のページだったので、描けないという意味では同じことだが、彼がまるまる一冊スケッチブックを持っているというのはなんだか、こそばゆい。


『これこみで、もらう』という言葉通り、シンフィルはどうやら一枚ではなく全部の絵が欲しかったようだ。

『絵が欲しい』なんて言われたことのない雨歌は、そんな彼が不思議で仕方がない。

 いつも煽るようなことばかり言って、無遠慮に雨歌に顔を近づけたり、当たり前のように触れてくる彼の目の奥に宿る色をもっと見たいと思う。


「こっち来い。迷うなよ」


 シンフィルがふいに振り返らずに言うので少しびっくりしてしまった。

 何でもないように取り繕って、その足取りに合わせて歩きながら、雨歌は周囲の景色を見た。

 この街は、放射状に広がる四つの区画から成っているらしい。

 ”外”に近いほど物は安く、そして、治安が悪い。


「ここは一番外側に近い、第一区。交易も多いし、人目もある。が、裏路地は別だ。そっち入ったら、昼でも賭博か強盗か売春か……まあ、お楽しみの詰め合わせってわけ」


 言葉の軽さのわりに、目だけが冴えている。


「とにかくあんたみたいなやつがふらっと迷い込んだら、あっという間に身ぐるみはがされるからな。俺のそばから離れるなよ」


「わたし、こどもじゃないよ」


「知ってる。こどもだと俺が困る……色々できねーじゃねぇか」


「……きみって、すぐいやらしい方向にするよね」


 ぼそりと呟くと、こちらを振り向かないまま、彼の肩が揺れている。理由は分からないが、機嫌は良さそうだ。


「ま、所有物は所有物らしくしとけ。勝手に探し物になるなってこと」


「……所有物ではないと思う」


 雨歌の言葉に、背中越しにシンフィルがこちらをちらりと振り向く。その目は煽るように光っていた。


「へえ。じゃあ、なんだよ?」


 からかうような口調の中に、何か、雨歌なりの答えを待っているような真剣な熱を感じ取って雨歌は目を見張った。

 でも何も答えが出てこない。

 シンフィルは肩をすくめて、「ま、俺のなかではもう決まってることだしな」とどうでもよさそうに

 流した。なんとなく、それは彼なりの優しさのような気がして、雨歌はそっと下を向いた。


 ***********************************************

 街に入って最初に連れてこられたのは、宿でも飯処でもなく、服屋だった。

 ルーガンは店の外で欠伸をしながら待ってくれている。

 アベイル広場の外れにある、その店は「旅人用」と掲げられていたものの、壁には繊細な魔術刺繍のローブや、防護結界入りの軽装鎧、さらには色とりどりの異国風装束が所狭しと並んでいた。


 見るからに、安くはない。雨歌の心臓がちくりと痛む。ザナルの森でも、彼から2000ダルという謎の単位の借金を背負わされている。ここでも買うとなれば負債はもっと増えるのではないだろうか。


 けれど、シンフィルは雨歌の心配をよそに、「この店なら、まあ許せる」とか何とか言って、当然のように彼女の背を押した。


「これ。これも。あー、これも似合わねぇか。いや、逆にいいな。色が浮く」


 本人の意見など聞く気もなさそうに、次々と服を引き抜いていく。

 店主は目を丸くしていたが、たぶんシンフィルが持っている赤い房飾りと、それに吊るされた魔術カードの紋章に気づいてからは、口を挟まなくなった。


 雨歌はといえば、無言のまま差し出される服に手を通し、素材を確認し、刺繍を見て、装飾の魔力を指先でなぞっていた。


 ――似合うかどうかは、どうでもよかった。

 まず、着心地。元居た世界でも、とにかく肌触りの悪いちくちくした服は徹底的に避けていた。

 この布は光をどの程度吸うか。風をはらむか。縫い目はまっすぐか。肌に触れたときの温度は?

 刺繍の意味は何だろう。魔術的な保護結界?それともただの装飾?それがどうしてこの位置に?


 頭の中が観察に支配されていく。

 まるで、描く前に対象を“ほどいて”しまう癖のように。


「……」


 気づけば、鏡の中に立っていた。

 薄墨色のワンピース。肩に軽いケープがかかり、裾には灰銀の糸で織られた円環紋様がひとつ。

 品はあるが、目立たない。

 全体的に“闇に溶けるような”服だった。


「これがいい」


 そう言うと、すぐに後ろから声が落ちてきた。


「やっぱ黒か。だと思った」


 振り返らなくても、口元を片方だけ持ち上げたような笑みが思い浮かんだ。


「アンタ……さっきから素材とか、刺繍とかしか見てないだろ。それに色も。黒しか着ないのか?」


「黒じゃないと嫌だ」


「やっぱりな。『これだと光がちらつく』『これは浮く』って顔してたろ」


 図星だった。


 鮮やかな青や紅の服も、見た。

 けれど、あまりに色が冴えていると、光を反射して視界に干渉する。描くときに邪魔になる。

 そして何より、自分だけが“色”を着ていると、まるでこの世界に馴染めていないように感じてしまう。


 その理由を、どう言葉にすればいいか分からなかった。


「……溶け込みたいだけ。あと、黒は、落ち着く」


「へぇ?」


 シンフィルが興味深げに唇の端を上げたのが、鏡越しに見えた。


「溶け込みたいわりには、視線の受け流し方が下手くそだよな、あんた。さっきも門番に上から下まで舐められるように見られててもなんも抵抗してなかったしな。実はあれで興奮するたち?」


「……別に、どうしたらいいか分からなかった」


「だったら俺の隣にいろ」


「……よけい見られる気がする」


 ぴたりと返されて、シンフィルが「はっ」と笑った。


 けれど次の瞬間には、

 彼は無言で、揉み手で待ち構える店主に服を持っていっていた。

 代金を払いながら、「着替え、あと三着くらい買っとくか__どうせまた絵の具だの泥だのつけるんだろ、アンタ」

 と、ぼそぼそ呟く。

 そのくせ、選ぶ服は全部黒で、布の質もほとんど同じだった。

 それを見ながら、雨歌は思った。


 この人はいつも煽ってばかりいるくせに、肝心なところでは何も言わない。

 “着てほしい”とか、“似合う”とか。

 他の誰かならそう言うであろう言葉を、彼は一度も使わない。


 でも、なぜか、それが──嫌じゃなかった。


 雨歌は静かに、手にした黒い布の質感を指先でなぞった。

 この色は、絵の邪魔をしない。


 それに、少しだけ……彼の瞳の輪郭と、似ていた。


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