13・今夜~奪うことが恋ならば、与えることは~
不思議な、七日間だった。
シンフィルと森で過ごす日も今日で最後だ。
グロテスクな奇樹と、そうでない木々がまじりあう風景。
それは七日間、美しくて醜いこの森で過ごしてきた雨歌にとって、どちらが“正しい”風景なのか、分からなくなるような錯覚を引き起こす。
雨はすっかり上がり、瘴気に呪われた森はつかの間の浄化を得て、漂う瘴気もどこか薄い。
均整の取れた美しい筋肉がマント越しに見て取れる彼の背中も、後ろを静かに歩いている翼持つ狼の息遣いも、歩みとともに過ぎ去っては瞼の裏で過去になっていく。
(きみがいなければ、きっと、わたし、死んでた)
望んでいようが、いまいが――そんなふうに言ったら、彼は怒るだろうか。
初めて、この世界で出会った異世界人。
初めて、自分の絵を見たいと言ってくれた人。
初めて、名前を知りたいと思わせてくれた人。
(明日でもう、会えない)
苔交じりの地面をける自分の足がひどく重く感じる理由がわからず、雨歌はため息に近い深呼吸をした。
せめて、絵を彼に捧げたい。
なのに__まだ、描いていない。
朝からずっと歩き詰めで、描く余裕すらなかった。
けれど、描きたい風景はある。通り過ぎたのは、一時間ほど前――あの場所だ。
雨歌はそっと背中を振り返る。
『死の沼』だとシンフィルは言っていた。いつものように皮肉なほほえみを浮かべながら。
でも、雨歌にはそうは見えなかった。
獣とも人とも判別できないような、膨張し爛れ、原形を失った死骸たちが沈み、絶えず瘴気を発している沼だった。
上空から差し込んだ日の光が、沼を照らす。
汚染されていない土地から立ち昇った清涼な空気が、それに応えるように瘴気を浄化し、一瞬だけ光が揺らめく。
そしてまた、瘴気に呑まれて消えていく。
ぐるぐると、めぐりめぐる生と死の追いかけっこ。
そんな輪廻の沼に、雨歌は目を奪われた。
「……描きたい」
そう呟いた声は、強引に引かれた腕の動きと、彼の荒い息に呑まれて、どこにも届かなかった。
抗議も懇願も許さない。
そんな赤い目の奥に、それでも本当は、願っているのは彼の方なのではないか――
そう思わせる、切実な色を見てしまって。
雨歌は何も言えずにその場を離れたのだった。
***********************************************
焚火の灯りは静かに揺らめく。
最後の夜は、
──静かだった。
夜の底に、息を潜めるような静寂が沈んでいた。
雨歌は、目を開けていた。
閉じていたはずなのに、ふと、呼吸の気配で目が覚めた。
横では、ルーガンが丸まって眠っている。シンフィルの姿もすぐそばにある。
彫りの深い顔立ち。薄い唇は、今はわずかに開かれていて。
焚火に照らされて、長いまつげが影を落としている。
固く閉ざされた目は雨歌の身じろぎにも反応しない。
昨日までだったらきっと彼は、雨歌が起きた気配を感じ取って起きていた。
なのに、今夜は起きない。
何が彼をそこまで『安心』させているのだろう。
昨日と今日の違いは何なのか、分からない。
(……あした、森を抜ける)
それは喜ぶべきことのはずだった。
瘴気の恐怖からも、足元を這う死の気配からも、ようやく解放される。
なのに。
胸の奥が、妙にざわつく。
絵が、描きたい。
今のうちに、描かなければならない。
(きみに絵を描きたい……)
(……描いておかなければ、ここにいた証が、わたしの中からも消えてしまう)
(きみに会ったことも、きみとここを歩いた記憶も。全部──)
雨歌は、そっと身を起こす。
結界のぎりぎりに置かれたスケッチブックと鉛筆を、足音を立てずに拾い上げる。
喉の奥がひどく乾いているのに、誰も起こしたくなくて、水筒にも手を伸ばさなかった。
夜の帳をくぐって、雨歌は結界を越えた。
ちらりと後ろを振り返ると、ルーガンが頭だけをもたげて雨歌をじっと見つめている。
吠えもせず、主に知らせることもせずに、翼狼はただ雨歌を見つめていた。
(ルーガン、シン君、ごめんね。すぐ戻る……少しだけ、描いたら戻るから)
まるで、引き寄せられるように──
あの輪廻の沼にへ向かって。雨歌は走り出した。
結界の外は、想像以上に静まり返っていた。
瘴気が沈む時間帯。
それでも、確かに空気は重く、皮膚の上をなにか見えないものが這っている。
それにさえ、雨歌は少しも怯えなかった。
いや──
怯える余裕が、なかった。
(死と命が追いかけっこしていた。奇麗なのに悲しかった。どうしても、もう一度、見たい)
足を運ぶたび、靴底が湿った苔を吸うような音を立てる。
遠くで、どこかの瘴獣が鳴いたような気がしたが、聞こえないふりをした。
それは雨歌にとって幸か、不幸だったのか。
シンフィルが木々を溶かして作り上げた道を逆にたどるだけで、簡単に目的の場所に辿り着くことができてしまった。
瘴獣の死骸が沈んでいる、輪廻の沼。
けれどそこには、確かに美しさがあった。
グロテスクなまでに、静かで、整っていない色彩。ゆらゆらと立ち上る瘴気は、昼間見た時よりももっと濃厚で、美しい。
腐敗と命の交差点。
その上を、淡い月明かりが──水鏡のように照らしている。
(……やっぱり、きれい)
そう思った。
雨歌はスケッチブックを広げ、膝をつく。
風が吹き、毒を孕んだ瘴気を運んでくるのも気にせず、ただ夢中で鉛筆を走らせる。
少し目が霞む。喉も痛い。
それでも、鉛筆は止まらない。
重ねた線が、紙の上に何かを浮かび上がらせるたび、呼吸が楽になる気がした。
あの沈んだ魔獣の骨格、瘴気に煙る水面。
浮かび上がる泡、血のように滲む色。
すべてが、観たことのない構図で、彼女の視界に迫ってくる。
(……見える)
(描ける。いまなら、描ける)
何かが“自分の中から出ていく”感覚。
この森に入ってから、ずっと圧し潰されていた何かが──
ようやく絵の中へと、解き放たれていく。
だが──次第に、手が重くなった。
視界が揺れる。
身体の芯が、冷えていく。
スケッチブックが、かすかに風に揺れた。
(……あれ、変だな……)
呼吸が浅くなる。肺が、空気を拒むように痙攣している。
足の指先が冷えて、何かが皮膚の裏側から抜けていくようだった。
気づけば、鉛筆が指から滑り落ちていた。
膝が、崩れる。
目の前の世界が、ねじれるように傾いた。
(……シンくん……)
心の中だけで、名前を呼ぶ。
声は、出なかった。
ただ、音もなく、沼の縁に倒れ込む。
視界の端で、描きかけのスケッチブックが風にめくられた。
描かれたのは、光の中に沈む命の輪廻。生きる渇望と、死の甘美。
それはまるで、彼の瞳の色のようだった。
***********************************************
火の粉が、ぱちりと跳ねた。はじかれたようにシンフィルは目を開けた。瞬時に、異変を悟る。
ルーガンが俯くその先、焚火の向こうに置かれた空の寝袋が──“無”を告げていた。
そこにいるはずの女——雨歌が、いない。
「………っは」
嗤い声がもれた。
思考は焼き切れ、喉元が、熱い。
腹の底からせりあがってくるような黒い炎のような怒りと、愉悦。
呼吸の隙間から、抑えきれない蘇芳色の魔力がゆらりと漏れ出る。ルーガンが耳を伏せ、びくりと体を揺らした。
「ああ、ルーガン、びびるなって……分かってるよ。『追わせたかった』んだろ?あの裏切り女を」
低い声は呪詛にも似ていた。
「さっすが、つがいサマ。俺の趣味をよく分かってる。そうやって俺に優しく踏みにじってほしいのか。……どこまで俺を甘く見てんだよ」
唇の裏を噛む。じわ、と血の味がにじむ。
舌でなぞって、そのまま味わう。
「油断するタイミングを伺ってたのか──俺が、鈍るのを待ってた」
ゆっくりと立ち上がると、雨歌の気配を闇夜の向こう側に探す。自分の魔力の残滓を辿って。
匂いでも、感覚でも彼女がいる先が分かるのは、雨歌の目の治療の時に、彼女の視界に自分の魔力を混ぜ込んだから。
視界の共有とまではいかないが、なんとなくならどこにいるかが分かる。
それをとがめるような人間はここにはいない。ルーガンだけが、悲しい目をしてシンフィルを見上げている。
「俺のことを、見下ろしてたな。『この人は大丈夫』って顔して。俺に抱かれることも想像つかないみたいな目をしてさ」
脳裏に浮かぶのは、昨夜。雨を一緒に眺めたあの甘美な時間だ。
そう、確かに甘く優しい時間だったのだ。今まで経験したことがないくらいの。
何かが通じ合った気がしていた。
だから、油断した。自分から逃げるわけないと信じ切っていた。
出会ってから毎晩、夜中に目を覚ましては、雨歌の寝顔を眺めていた。劣情を抱えながら。
どうせ神殿に届けるまでの関係だ。
今すぐ起こして、今まで女たちにしてきたみたいに見つめて、暴いて、奪って、遊んで。
そうしようと思えばいつだってできたはずなのに。
できなかった。
自分の中に巣食う、痛みと悦びの区別もつかなくなるほどの衝動を押し殺して、一緒にいることを選んでいた。
わかってる——甘やかしすぎた。
口では弄んで、寸止めで、優位を取ったふりして、
心の底じゃずっと、踏み込めなかった。
(臆病だったのは、俺のほうか)
罰を与えなきゃ、あいつは分からないだろう。なら、追いかけて。捕まえて。
代償を払わせなきゃ、俺のこの執着は満たされない。
行き先は分かっている。
「死の沼、か」
呆れて乾いた笑いが漏れる。
どこまでも愚かな女。
あの時、雨歌はまたあの目をしていた。
シンフィルが心底嫌いな、あの目。
死への憧れのような、ここにはない何かへの渇望のような。
声に出して、行くな、とは言わなかった。
それでも。
(俺の目を、信じてほしかった)
「今夜が最後の夜なら──お前に刻むには、ちょうどいい。
忘れられなくしてやる。『俺の夜』だって、思い出すように」
低く呟き、沼の方へと足を踏み出す。
「どこにも逃げんなよ。
その罰、全部この手で刻むまで。……アンタには、償ってもらう」
いつの間にかシンフィルは夜の森を駆け出していた。
背を向けて走る風景が、ぐにゃりと歪んで見える。
(ふざけるな。冗談じゃない。見つけ出して、罵倒してやる。指一本でも動かせるうちに捕まえて、引きずってでも連れ戻す。懇願させる。後悔させる。二度と俺を置いていけないように、刻み込む)
魔術の詠唱もなしに、彼の影が蘇芳色に揺れている。
狂気と欲望を抱えて、シンフィルは獣のように夜を駆ける。
執着、独占、狂気、罰。
すべてを肯定するために、彼は今、夜を裂く。
その笑みは、もはや王者ではない。
ただの、
恋に落ちた亡者だった。
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