第13話 雨宮雛子【六】



「た、助かった……」

 誘拐犯たちがいなくなって、クローゼットの中から出てきた雛子はか細い声でそう呟いた。

 相当緊張していたのだろう、手のひらがぐっしょりと汗で濡れている。そのくせ、全身は冷や水を浴びたように震えている。きっと今鏡を見たら、顔色を真っ青にした自分の顔が映ることだろう。

「また、助けてくれた……」

 ぎゅっと自分の両腕を握って、雛子は誘拐犯の顔を思い浮かべる。

 初めて見た時は悪魔のようにしか見えなかった。非常に端麗な容姿をしていたが、その姿を利用して人間を破滅へと導く狡猾な悪魔……いや、悪魔以上に恐ろしいなにかと評しても過言ではないかもしれない。それほど、雛子は誘拐犯のことを化け物のように思っていた。

 それが今や雛子を救うヒーローとして見えるのだから不思議なものだ。雛子をこんなところへと連れ込んだ犯罪者だというのに。まさか今になって心変わりしたとでもいうのだろうか。

「あの人、月城さんって言うんだ」

 女性が呼称した誘拐犯の名字と思われるものを、雛子も自分で呟いてみる。犯罪者であるにも関わらず、わざわざ敬称も付けて。

 自分でも愚かだということはわかっている。あの男は紛れもない犯罪者で、どんな理由だとしても許されないことをした罪人だ。今だって、雛子の中にはあの男に対する怒りや憎しみで心の底が渦巻いている。

 だというのに、それ以上に誘拐犯に対する信頼のようなものが芽生えようとしている。否──すでに芽が出ていると言ってもいいくらいだ。これが愚かだと言わずとしてなんと言うのか。

 しかしそれでも、雛子にとっては唯一縋れる希望だった。この先の見えない暗闇の中でわすかにも輝く明光があるだけで、人はこんなにも生きる力を取り戻せるものなのか。檻の中で絶望に暮れていた少し前の自分が嘘のようだ。

「確かあの人、三階の檻のあった部屋に戻れって言ってたよね……」

 反芻するように独り言を呟いて、雛子は緩慢に立ち上がる。

 いつまでもここにいるわけにはいかない。一度誘拐犯がここを調べたとはいえ、別の人間がまた探しに来るかもしれないし、ここが当直室だということは、夜勤で使う者が必ずやって来るということにもなる。さっさとここから退出せねば。

「あ、でもその前に──」

 言って、雛子はぐるりと周囲を見回す。

 当直室ということは、ここに電話が置いてある可能性が高い。三階に行く前に、警察に通報できたらこれ以上の成果はない。

 そうなると自然、誘拐犯も警察に捕まってしまうことになるが、どのみち彼がやったことはちゃんと法の裁きを受けるべきだ。ただ途中で雛子を救おうとしていたのも事実なので、それだけは世間に訴えてあげてもいいかもしれない。それで誘拐犯が改心でもしてくれたら、雛子はもう、彼に思うことはなにもない。ひょっとしたら他にも罪を犯しているかもしれないが、雛子個人としては、彼を憎む気にはなれなかった。

 わたし、かなり甘いのかもと苦笑しつつ、雛子は部屋の中を探し回る。

 するとキッチン近くにあるテーブルの上に、雛子が探し求めていた固定電話が置いてあった。それを見て、雛子は喜び勇んで飛びついた。

 だが、それは──



「うそっ。電話線が切られてる……」



 切断された電話線を見て、雛子は半ば呆然と呟いた。

 一体だれがこんなことを。誘拐犯か、もう一人の仲間のどちらかだろうか。両者とも紛れもない犯罪者なので、通報されるのを恐れてあらかじめ電話線を切ったのかもしれないが、ようやく見つけた助かる手段が使い物にならないと知って、雛子はあからさまに落胆した。

 だがまあ、仕方がない。こうなっては別の方法を考えるしかないだろう。それこそ、一度三階に戻り、誘拐犯と合流した後にでも。

「電話線を切ったかもしれない人なのに、わたしはあの人を頼ろうとしている……」

 自然に漏れた呟きに、自分でもどうかしているなと雛子は苦笑する。

 仮に誘拐犯が電話線を切った張本人だとしたら、とどのつまりそれは、雛子のことを信用していないということだ。口では助けるとは言っても、やはり我が身が可愛いということに他ならない。

 が、雛子としてもさほど気には留めていない。腹立たないと言えば嘘になるが、たとえ心変わりしたと言っても国家権力の前では恐れを抱いてしまうものだろうし、そういった意味では、別段おかしな話とも言えない。想像の範疇である。

 重要なのは、自身の保身に走ろうとも、雛子を助けようとしてくれている意思があるという点だ。結果的に誘拐犯を警察に突き出せなくても、今は無事に生きて帰れたらそれでいい。その後のあれこれは、周りの大人にでも任せればいいのだ。

 そう──なにがなんでも生きて帰る。こんなところで短い人生を終えてたまるか。

 自身の心を奮い立たせて、雛子を出入り口へと向かう。電話が使えない以上、ここに留まる理由はない。誘拐犯に指示された通り、さっさと三階に向かってしまおう。

 大きな音を立てないよう慎重に歩き、ドアの前へと来て耳を押し当てる。

 外からは特に話し声のようなものは聞こえなかった。どうやら誘拐犯も早々に別の場所へと移動したようだ。

 ごくりと生唾を飲み込んで、そっとドアを少しだけ開け、外の様子を窺う。

 前方に人影は見当たらなかった。以前として話し声や靴音も聞こえない。ここに来たのは誘拐犯と連れの女だけで、使用人は来なかったのだろうか。

 まあ、なにはともあれ、こっちにしてみれば好都合だ。この機を逃す手はない。

 徐々にドアを開いていき、後方も確認した後、周りの気配に注意を払いながらそっと当直室を出る。そして壁を背にして、すぐそばの広間を見る。

 広間にはだれもおらず、しんと静まり返っていた。使用人が物陰に隠れてこちらの様子を窺っているかもと危惧したが、そもそもこうしていることが読まれている時点で向こうの手中にいるようなものだ。そう考え直し、雛子は思いきって広間の横を駆け抜ける。

 広間を横切り、すぐそばにある階段を目指す。

 幸い、途中でだれかと遭遇することもなく無事に階段へと辿り着いた。広間との同じように人がいないか、壁際から様子を見る。視界に人影はなく、また耳を澄ましてみるも、物音一つ聞こえてこなかった。少し前までは焦燥したようにざわついていたのに。

 そのことに若干疑問を抱きつつも、雛子は意を決して階段を上る。

 これも問題なくクリアして、雛子は三階に到着した。そっと壁から顔を覗かせて通路の左右を見る。

 元いた部屋はだいぶ先の方にあるのだが、そのせいもあって視界の中に目的地はまだない。途中で角を曲がることになるが、走れば五分とかからず到着できるはずだ。

 一見するに、特に人はいないように見受けられる。正直、ここまでだれの姿も見えなかったことが不気味に思えるくらいだ。

 ともすれば捜索をやめたのだろうかと思いもしたが、いささか現実味に欠ける。まだ家中の者が動きを見せてから捜索をやめるほどの時間は経っていないような気がするし、なにより雛子に逃げられては非常に困るはずだ。万一にでもこの家の悪事がバレたら、それで一巻の終わりとなるからである。

 となると、この奇妙な静けさは一体なにに起因したものなのか。

 本当に捜索をやめただけなのか、それとも、どこからかじっと雛子が姿を見せるのを待っているのだろうか。さながら、木陰から獲物を凝視する獅子のごとく。

 つーっと額から垂れた汗が頬を伝う。心臓が荒れるように脈動し、呼吸が乱れる。

 行くか行かざるべきか。これが罠なら迂闊に近寄れないし、逆に罠でもなんでもなかったら、これほどの好機はない。

 だがよくよく考えてみると、これは誘拐犯が意図的に人払いしたせいなのかもしれない。でなきゃ安易に三階の元いた部屋に戻れとは言わないはずだ。なにかしら三階まで戻れる安全策があって、雛子を誘導したと考えるのが妥当だ。

 根拠があるわけではない。しかし今は、その可能性に賭けるしかない。

 そう一大決心して、雛子はシーツが取れないようきつく体に巻き付けた後、全力で走り出した。

 シーツの余分が風になびいて後ろに流れる。少し走りにくいが、構ってなんかいられない。

まっすぐ駆けて、途中で角を曲がり、再び元いた部屋を目指して直進する。

 狙い通りというべきか、これまでと同様、だれとも出くわさなかった。割と足音を響かせている(さすがに階下まで届くことはないだろうが)にも関わらず、今になってもだれも駆けつけてこないということは、やはり誘拐犯の計略のものなのだろうか。まあとにもかくにも、雛子は目的地向けて疾走するだけだ。

 そうして雛子は、目的地であった元いた部屋──檻に入れられて監禁されていた場所へと到着した。

肩で息をしながら、雛子はひざに手をつきながら顔を上げて扉を見やる。

 最初、ここから出た時はひたすら逃げることしか考えていなかったが、まさかこうして戻ってくることになろうとは、あの時の雛子は考えもしなかっただろう。誘拐犯いわく、相手の意表を突くためと説明していたが、なるほど。確かにまた脱走した子供が監禁部屋に戻ろうとはだれも考えまい。雛子とて耳を疑ったくらいだ。

 誘拐犯はどうしているだろうか。まだ仲間と一緒に雛子を探す振りをしているのだろうか。あるいは皆の目を掻い潜って、すでに中で待っているかもしれない。

 もしそうであるなら、少しだけ……ほんの少しだけだが、嬉しく思ってしまうかもしれない。

「これじゃあわたし、またあの人に誘拐されても素直に言うこと聞いちゃうかも……」

 無論、今度はちゃんと身の安全を保証した上ではあるが、誘拐犯に懇願でもされたら、黙って付いて行ってしまいそうだ。少女マンガでもあるまいに、逃避行でもして誘拐犯との禁断の愛を育むつもりか。

 ……相手がアイドル顔負けの美男子なだけに、悪い気はしないのがまた困る。

 などと、浮かれている場合ではなかった。いつまでも人が来ないとも限らないし、早く中に入らないと。

 雑念を振り払い、雛子は扉に手をかける。ひょっとしたら鍵がかかっているかも不安が過ったが、そんなことはなく、ちょっと力を込めただけで扉がわずかに開いた。

 その際、隙間から光が漏れているのがわかった。中にだれかいるとしたら、それは誘拐犯以外にあり得ない。

 思わず口許を綻ばせながら、雛子は一気に扉を開く。

 扉を開くとそこには、予想通り誘拐犯がすぐそばに立っており、雛子に気付いてにっこりと相好を崩した。

 それを見て、雛子もつられたように笑みを浮かべて、

「えっ──?」

 瞬時に笑顔を凍らせた。


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