サクッと稼いでみせましょう!

第4話 大家

「ラーリ! いるんだろう。返事をしな!」

 野太い女の声が借家に響いた。

 砂色の石畳に朝日が差し込み、街の喧騒がまだ完全には目を覚ましきらない頃。細い路地を抜けた先に、その借家はあった。


 二階建ての家屋。白っぽく塗られた日干し煉瓦の外壁はところどころ剥がれ、ワインよりやや赤く、突っ張った形の屋根が光を浴びて輝いている。

 建物の壁には素焼きの壺。そのさらに奥に、色あせた日よけ布が風を受けて揺れている。


「……また開けっ放しかい」

 女は木製の戸に手を掛けると眉をひそめた。彼女はもう一度、ラーリの名を呼ぶ。


 大家が家賃を取り立てに来たぞと、金を払わないなら出て行かせるぞと、冗談ぎみに、しかし半ば本気で声を飛ばす。

 やはり返答はない。

 大家は戸を半開きにして、長方形の入り口に足をかけた。


 にゃー。


 足下から、か細くて愛らしい鳴き声がした。

 戸口から黒い三角耳を覗かせたのは子猫である。


 大家は、

「ご主人様はどこだい?」

 猫は軽いステップを踏みながら、家の中へ引っ込んでいく。

 大家は黒猫を追いかけて部屋へ踏み入った。


「ラーリ、いるんだろう? 今月と先月の家賃、そろそろ払ってもらわないと困るんだけどね──」

 そこまで言って、大家は異変に気付いた。

 指でぎゅっと鼻をつまむ。

「何だいこのニオイは!」


 室内から強烈な異臭がする。くんせいの香りではない。うじが湧いたような、腐り切った肉の臭いだ。

「まさか……!」

 何かに気づいた大家が、大慌てで部屋へ駆け込んだ。


 そこには、


「あ、大家さん、おはようございます。どうしたんですか?」

 火床に鍋を置き、煮えたぎる湯を、ぼうでぐるぐるとかき混ぜる一人の少女がいた。床には大量の小魚が散らばっている。


「魚の煮込みだったのかい!」

「見た通りですけど。何か変でした?」

 大家は安堵して息をついた。


 黒猫が大家の足の間を通り、主人の元へ向かって行く。ラーリは猫の首を優しく撫でてから、抱きかかえてまた混ぜる。


「染料の実験をしています。鉱石や植物から色を抽出する方法は、古代から知られていますが、他にも方法があるはずだと思って試してまして」

「あんたの仕事は知らないよ。それより、家賃を払ってもらわないと、こっちとしても困るんだよ!」

 大家の早口。


 忘れていたとばかり、ラーリの顔色が変わった。こわばった動きで頭を大家に向け、満面の苦笑い。

「あ、……ああ、あの。その、み、み……三日後には必ず」

「組合へ加入してる染料師なんだろう? それなりに稼いでいるはずじゃないか」


「そ、そうなんですが、つい、出来心で、軽はずみに……」

「軽はずみに、何だい」

「ですから、その、つい、抑えがきかなくて、やってしまうのです」

 その言葉を聞き、大家が不思議そうに部屋を見回す。


 石造りの床には、麻を編んだマットが敷かれ、壁際に収納棚。半キュビトほどの小窓から、光が差し込み棚を照らしている。

 棚には鮮やかな鉱石、植物、貝、種類の違う小壺が大量に、それはそれは大量に詰め込まれていた。


「なるほど」

 納得したとも取れる大家の微笑み。

「仕事用に色々買い込んでしまうんだね」

「そうなんです! そうなんですよ! 先週買った宝石は方解石ほうかいせきと言いまして、粉にすると色味の調整にとても使いやすく……」

 ラーリは口をつぐんだ。


 大家の拳が小刻みに震えている。子猫がラーリの肩から飛び退いた。

「宝石を買う金があったら、真っ先に家賃を払うもんだよ! 今すぐ仕事をして、銀貨十枚を稼いできな!」


 ラーリは蹴られるように屋外へ出された。

 ラーリはチュニックから土を払い、

「仕方ないですね……」

 特に気にする様子もなく、まっすぐギルドへ向かうのだった。



 ♢ ♢ ♢



 アレクサンドリアの朝は、楽しい音と匂いに満ちている。

 陽光が朝霧の中から都市を照らすと、威風堂々とした城壁が浮き上がった。


 焼きたてのパンの香り。小麦に胡麻ごまに、ときどき蜂蜜はちみつの甘い香りがパン屋から漂ってくる。

 魚市場では、朝一番に水揚げされた魚や海藻の匂いがする。

 鳥のさえずり。船の帆を張る音。ロバの鳴き声。

 鍛冶屋の槌音つちおとに加え、野菜売りの呼び込みだって忙しない。


 ラーリは石畳の街道を進み、アレクサンドリアの中心部にあるギルド会館を目指す。柱のいっぱいある建物を左右に見ながら、どんどん進む。

 おんどりが三度鳴く頃、見慣れた会館が見えてきた。


「サクッと家賃分稼いでみせますよ!」

 ラーリは腕をまくって会館に入った。





「ないですね……」

 ラーリは膨れっ面で掲示板を睨みつけた。

 掲示板にはパピルスの指示書が、重なるように幾つも貼り付けてある。

 仕事内容と報酬の書かれた紙だ。


〝俺はモテたい! イカした染め服をくれ。報酬は銀貨三枚だ。──フィロン〟


〝新しい船に旗がほしい。胸の大きな女神の絵を描いてくれ。銀貨二枚。──ガロス〟


〝唇の顔料がほしいわ。今週こそ彼を堕として見せるんだから! 銀四枚よ!──ロア〟


 ラーリは金額を人差し指でなぞって首を振り、また別のパピルスをなぞっては溜息を洩らす。

 家賃に届きそうな仕事はありそうもなかった。


 跳ね上がった口ひげの老人が受付から顔を覗かせた。

「ラーリじゃないか。今日はお前さんの工房は休みだろう」

「テオドロスさん。そうなんですが、どうしてもサクッと稼がないといけない事情ができまして。一人でできて、たんまり稼げる仕事はありませんか」


「あいにく銀貨五枚以上の仕事は、とある工房に渡っていてな」

「カミラですか」

「お前さんの勘の鋭さには、頭が上がらんよ」

 ラーリの答えに、受付係が軽快に笑った。


 老人は髭を撫でながら説明する。

「報酬は銀貨十二枚だ。場所は街はずれの神殿。神が血の涙を流すそうだぞ。災いの前触れだと依頼に来た神官は洩らしておった。カミラ様より先に災いを取り除ければ、あるいは報酬が貰えるかもしれんがな。まあ、報酬の額から言って、個人でどうにかできる事案じゃないだろうから、お前さんはおとなしく──」


 受付係が顔を向けると、掲示板の前の少女はいなくなっていた。


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