第3話

 重厚な扉を開けると、そこは豪奢ながらも実用性を重視した、いかにもギルドマスターの執務室といった趣の部屋だった。



 壁には無数の地図や手配書が貼られ、棚には魔物の素材らしきものが瓶詰めにされて並んでいる。


 そして、その部屋の主、巨大なデスクの向こう側に座る人物の姿を認めた瞬間、私は思わず息を呑んだ。




 そこにいたのは、燃えるような紅蓮の髪を無造作に束ねた、私よりも一回りほど年上の女性。


 右目を覆う、傷だらけの銀の眼帯。


 鍛え上げられた肉体を包む、機能的な革鎧。




 そして何より、私を見つめる左の瞳に宿る、鋭くもどこか懐かしい光。




「……アイナ?」




 口からこぼれ落ちたのは、忘れるはずもない名前だった。




 身の丈ほどもある巨大な斬馬刀こそ背負ってはいないが、間違いない。


 かつて、私がまだ『雷霜の剣帝』と呼ばれるずっと前、ほんの短い期間だったが、共にパーティーを組み、死線を潜り抜けた、SS級冒険者『紅蓮のアイナ』その人だった。




「よう」




 アイナはニヤリと口の端を吊り上げ、椅子に深くもたれかかった。その仕草は、昔と少しも変わらない。




「その年で『ベル』を名乗る、子連れの女冒険者なんてな。お前くらいのもんだと思ったぜ」




 その言葉に、私はようやく合点がいった。受付が騒がしくなった理由も、ギルマスに呼び出された理由も、全て。




「……常在戦場なんて言って、ギルドのデスクワークなんて一番嫌いそうだったあなたが、ギルマスなんてやってるのね」




 驚きを隠せない私に、アイナは肩をすくめてみせる。




「戦闘しか能がないと思っていた、クソ不愛想な小娘が伯爵夫人になるよりかは、万倍マシだろ」


「……それもそうね」




 ぐうの音も出ない。私は思わず、小さく頷いてしまった。確かに、私が伯爵夫人になったことの方が、よっぽど天地がひっくり返るような出来事だっただろう。




「まあ、なんだ。久しぶりだな、ベル。……色々、あったみたいじゃねえか」


 アイナの視線が、私の腕に抱かれたレーラへと注がれる。その眼差しは、先ほどまでの刺すような鋭さとは違う、どこか柔らかな色を帯びていた。




「とりあえず、座れよ。話はそれからだ」




 彼女はデスクの脇にあった棚から、埃をかぶったジョッキを二つ取り出すと、無造作に布で拭い、近くにあった樽から琥珀色の液体をなみなみと注いだ。芳醇な麦の香りが、ふわりと漂う。




「ほらよ」


 差し出されたエールのジョッキを、私は戸惑いながらも受け取った。


 レーラを抱いているので少し飲みにくいが、彼女なりの歓迎なのだろう。




「……で?」




 アイナは自分のジョッキをぐいと煽ると、まっすぐに私を見据えた。




「何があった? クライフォルト伯爵夫人が、なんでまたこんな場所に、そんな格好でいるんだ。……変人とはいえ、伯爵様がお前を手放すとは思えねえが」




 その問いに、私はどこから話すべきか、少し迷った。


 夫のこと。ゲルトナーたちのこと。屋敷を追い出されたこと。


 あまりに多くのことが、この数か月、そして数時間で起こりすぎた。




「……長くなるわよ」


「構わねえ。今夜は徹夜に付き合ってやる。まずは、お前さんの口から、全部聞かせてもらうぜ」


 アイナの、揺るぎない眼差し。


 昔と変わらない、仲間を見捨てないという強い意志が、その瞳の奥に宿っていた。


 その視線に、張り詰めていた心の糸が、少しだけ緩むのを感じた。




 ◆◇◆◇◆◇




 一通り、事の顛末を話し終えるのに、案外とそれほど時間はかからなかった。


 夫が未開域ダンジョンの調査中に消息を絶ったこと、ゲルトナーとダリウスの簒奪、そしてありもしない罪での追放劇。淡々と、事実だけを告げる私の言葉を、アイナは黙って聞いていた。




 そして。


 私が最後の言葉を紡ぎ終えた、その瞬間。


「――んだそりゃあ?! あいつら、頭沸いてンのかァァッ!!!」




 ドンッ!!!と、雷が落ちたかのような轟音と共に、重厚なオーク材のデスクが大きく揺れた。アイナが、テーブルが砕けんばかりの勢いで拳を振り下ろしたのだ。彼女の左目には、怒りの炎が燃え盛っている。




「ふぎゃっ! ふえぇぇぇん!!」


 その怒声に私の腕の中ですやすやと眠っていたレーラが、ビクリと体を震わせ、火がついたように泣き出してしまった。




「あ! ちょっ、アイナ! あんまり叫ばないでって言ったでしょ、レーラが……!」




「わ、悪ぃ! すまん、嬢ちゃん、怖かったよなァ?!」


 私の抗議よりも早く、アイナは慌てふためいて席を立った。さっきまでの憤怒の形相はどこへやら、今は罪悪感と焦りでいっぱいの顔をしている。




 彼女は私の隣にやってくると、おろおろとしながら、ごつごつした大きな手で、いないいないばあ、のような仕草を始めた。




「ほ、ほら、泣き止んでくれよぅ……。お姉ちゃんは、怖くねえからな……?」




 その必死な様子に、私は思わず昔のことを思い出していた。




 彼女は昔からこうだった。




『紅蓮のアイナ』といえば、その圧倒的な強さと容赦のない戦いぶりから、他の冒険者たちに恐れられていた。けれど、実際は仲間思いで、私のような年下の冒険者や新米には、なんだかんだと世話を焼いてくれる、面倒見のいい姉御肌だったのだ。顔が怖いせいで、よく子供に泣かれていたけれど。




 アイナの必死のあやしが功を奏したのか、あるいは単に泣き疲れたのか、レーラはしばらくするとしゃくりあげながらも、次第に落ち着きを取り戻していった。




「……ふう。悪かったな」


 レーラが再び寝息を立て始めたのを確認し、アイナはそっと席に戻る。そして、今度は声を潜め、真剣な表情で私に言った。




「……事情は、まあ、納得はできねえが、理解はした。胸糞悪ぃ話だがな」


「……ええ」


「で、だ。これからどうするつもりだ? お前、まさか本当に冒険者に復帰する気か?」




 その問いに、私は迷わず頷いた。


 そして、私の計画を、はっきりと彼女に告げる。




「ダンジョンに潜るわ。この子と、二人でパーティーを組んで」




 その言葉を聞いた瞬間、アイナの左目が、すっと細められた。空気が、再び張り詰める。それは先ほどの怒りとは違う、冷たく剣呑な光だった。




「……正気か、ベル」


「正気よ。これしか方法がない」




 彼女が何を言いたいのかは、わかっている。子連れでダンジョンなど、自殺行為に等しいと。危険すぎると。




 だが、私にとって、これは譲れない一線だった。




「あの男たち……特にゲルトナーのことだから、きっと何か仕掛けてくる。私以上に、レーラの継承権だって、どんな手を使ってでも奪い取ろうとするはず。万が一のことがあれば、あの子は私と同じように、あるいはもっと酷い目に遭わされるかもしれない」




「だからって、ダンジョンに連れて行くってのか?! 外の世界の方が、まだ安全だろうが!」


「いいえ」




 私は、アイナの目をまっすぐに見つめ返して、首を横に振った。




「外の世界には、貴族の法と権力が及ぶ。でも、ダンジョンの中は違う。そこは、冒険者とモンスターだけの世界。国の法さえ及ばない、力こそが全ての魔境よ。……そこが、今、一番安全な場所なの」




 地上にいる限り、私は『クライフォルト家から追放された女』であり、レーラは『不貞の子の疑いをかけられた相続人』だ。ゲルトナーの権力が及ぶ範囲では、どんな卑劣な罠が待ち受けているかわからない。


 しかし、ダンジョンの中に入ってしまえば、話は別だ。




 そこでは、私の肩書など何の意味も持たない。ただ、剣の腕と実力だけが、私とレーラを守る唯一の盾となる。




「……それに、夫が消えたのも、ダンジョン。別のダンジョンとはいえ、何か手掛かりがあるかもしれない」




 そう。これは、復讐と生活のためだけではない。


 夫を探すための、最後の希望でもあるのだ。




 私の決意に満ちた瞳を見て、アイナは深く、長い溜息をついた。


 彼女はジョッキに残っていたエールをぐいと飲み干すと、こめかみを指で揉みながら、唸るように言った。




「……お前が一度決めたら、テコでも動かねえのは、昔から知ってる。……だがな、ベル」


 彼女は、真剣な眼差しで、もう一度私を見た。




「それでも、俺はギルドマスターとして、お前のその無謀な計画を、簡単には認めるわけにはいかねえ」




 その言葉は、冷たく、そして重かった。

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