リプレイ・シンドローム

風葉

第1話

私の世界の中心は、昔からずっと、幼なじみのキミだった。


美月みづき、またそのキーホルダー見てんの? さっきガチャガチャで出たやつじゃん。そんなに珍しい?」


呆れたように、でも、どこか楽しそうに笑う声。顔を上げると、少し西に傾いた太陽の光を背にしたキミ―――陽翔はるとが、私の顔をのぞき込んでいた。


「珍しいよ! だってこれ、シリーズで一番欲しかった猫のやつだもん。陽翔が引いてくれなかったら、私、全財産つぎ込んでたかも」

「大げさだなぁ」


2025年6月7日、土曜日。

部活が終わった後の、いつもの帰り道。二人で他愛もない話をしながら歩く、ありふれた時間。でも、私にとっては、何よりも大切な宝物の時間。


さっき陽翔がカプセルトイで引き当ててくれた、三百円の猫のキーホルダー。手のひらの上でころんと転がるそれを、私はぎゅっと握りしめた。陽翔がくれたものなら、たとえ三百円だって、私にとってはダイヤモンドよりも価値があるのだ。


「あ、見て美月! 虹!」

陽翔が指さす空には、夕立の後にできたらしい、淡い七色の橋が架かっていた。私たちは歩道橋の上で立ち止まり、しばらく見とれていた。


「きれいだね…」

「うん。…なぁ、美月」

「なに?」

「来週さ、ヒマ? もしよかったら、映画でも…」


陽翔が少し照れたように、頬をかきながらそう言った。

映画? 二人で?

それって、もしかして…。

心臓が、ドクン、と大きく跳ねる。期待で胸がいっぱいになって、顔が熱くなるのがわかった。


「いく! 絶対いく!」

食い気味に答えると、陽翔は「そっか、よかった」と、今まで見た中で一番優しい顔で笑った。


ああ、神様。

こんなに幸せでいいんでしょうか。

この時間が、永遠に続けばいいのに。


そんな、ありきたりな願いを心の中でつぶやいた、その時だった。

陽翔の手から、するりと携帯が滑り落ちた。カシャン、と音を立てて、歩道橋の階段を転がり、車道の手前で止まる。


「あっ、やべ」

陽翔は「すぐ取ってくる」と、慌てて階段を駆け下りていく。

私は、胸の高鳴りがおさまらないまま、そんな彼の背中を見送った。

赤信号。車は来ていない。

陽翔が車道に一歩足を踏み出し、携帯に手を伸ばす。


その瞬間だった。

どこから来たのか、一台のトラックが猛スピードで交差点に突っ込んできた。運転手がスマホか何かを見ていて、信号に気づいていない。


「陽翔っ!!!」

私の叫び声と、けたたましいブレーキ音、そして、世界が砕けるような衝撃音が、ほとんど同時に響いた。


時間が、止まった。

さっきまで陽翔がいた場所に、赤い、赤い飛沫が散っていた。

さっきまで陽翔が持っていたはずのスマートフォンが、画面をめちゃくちゃに割られて転がっている。


「…あ…」

声が出ない。

息ができない。

陽翔が、いない。

さっきまで隣で笑っていた、私の世界の中心が、一瞬で消えてしまった。

嘘だ。

夢だ。

何かの間違いだ。


頭の中でぐるぐると同じ言葉が回るだけで、体は鉛のように動かない。周りの人たちの悲鳴も、救急車を呼ぶ声も、全部遠くに聞こえる。涙さえ、出てこなかった。


どれくらいそうしていただろう。

絶望の底で、ふと、誰かの声がした。


「―――可哀想に」

ハッと顔を上げると、いつの間にか、一人の男子生徒が私の隣に立っていた。

うちの学校の制服を着ているけれど、見たことがない顔。色素の薄い髪と、感情の読めない黒い瞳が、人形みたいに整っている。


「キミが、望むなら」

彼は、私と、陽翔がいた場所を、ただ静かに見下ろしながら言った。

「彼を、助けることができる」


何を、言っているの?

この人は。

陽翔は、もう…。


「時間を巻き戻す力をあげる。今日という一日を、もう一度やり直す力を」

まるで悪魔のささやきだった。

でも、今の私には、神様の声に聞こえた。


「ほ、ほんとうに…? 陽翔を…助けられるの…?」

「ああ。ただし、タダじゃない」

彼はゆっくりと私に視線を移した。その瞳は、私の心の奥まで見透かすように、冷たくて、静かだった。


「リプレイするたびに、代償を払ってもらう。代償は―――キミが持つ、彼との大切な記憶、一つ」


記憶、を…?


「彼を助けるためなら、彼との思い出を忘れてもいい? 初めて話した日のこと、一緒に笑った日のこと、その温かい手の感触…。一つ、また一つと忘れて、彼がキミにとっての“ただのクラスメイト”になっても、キミは彼を救いたい?」


残酷な質問だった。

陽翔との思い出は、私のすべてだ。それを失うなんて、考えられない。


でも。

でも、陽翔がいない世界で、思い出だけを抱きしめて生きていくなんて、もっとできない。

たとえ、私が陽翔を忘れてしまっても。

陽翔が、この世界に生きていてくれるなら。


私は、ボロボロと初めて涙をこぼしながら、目の前の彼に、悪魔に、神様に、必死に手を伸ばした。

「お願い…しますっ…! 陽翔を…! 助けて…!」


その言葉を聞くと、彼は満足そうに、ほんの少しだけ口の端を上げた。

「契約、成立だ」

彼の指が、パチン、と鳴らされる。


その瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。

サイレンの音、人々の叫び声、風の音、すべてが逆再生で巻き戻っていく。視界が真っ白な光に包まれて―――

ハッ、と息をのんで、私は自分のベッドの上で飛び起きた。

心臓がバクバクと激しく鳴っている。頬には、涙の跡。


窓の外からは、明るい日差しと、小鳥のさえずりが聞こえる。

見慣れた、自分の部屋。

(ゆ、め…? そうだ、夢、だよね…、あんな、ひどい…)


そう思い込もうとした時、枕元に置いたスマホが、ブブッ、と震えた。

メッセージの通知。陽翔からだ。

『美月、おはよ! 今日部活終わったら、駅前のガチャ見に行かね?』

その、あまりにいつも通りの文面に、私は安心して息をついた。

よかった、夢だったんだ。

そして、ふと、日付を確認するために画面に視線を落とした。

そこに表示されていたのは。

【 6月7日 土曜日 】

「………え?」

背筋が、ぞくりと凍った。

悪夢が、また、始まる。

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