第24話

「柚彦くん、困ってるでしょ」

 箸袋で器用に箸枕を作り、沙羅ちゃんはその上に割らないままの箸を置いた。顔はテーブルに向けたまま上目遣いで柚彦を見る。少々笑っているような、でもどこか寂しそうにも見える眼差しだった。

「付き合ってた時と違い過ぎて、戸惑ってるでしょう」

 言い当てられて、つい素直に頷いてしまう。

「あ、いや……」

 慌てて取り繕おうとする柚彦を見て、沙羅ちゃんの眼が優し気に細められる。

「ごめんね」

 そう言った後で沙羅ちゃんは、ほうじ茶が入った湯呑を手に取った。少々熱かったようで、軽く唇を付けただけで湯呑は再びテーブルに戻される。

「私ね。好きだって思っちゃうと途端に自分を出せなくなるの。……昔からそうなの。相手はきっとこんな女の子が好きなんだろうって自分で決めて、それを演じてしまう。どんどん素の自分から離れていって戻れなくなって……苦しくなる」

「…………」

「本当は、柚彦くんが嫌いになった訳じゃないの。自分が嫌になったの」

「沙羅ちゃん」

「素の自分を出してぶつかってみようと思ったけど、ちょっとはじけ過ぎて……逆に疲れちゃった」

 気が抜けたように肩を落とし、沙羅ちゃんは力無い笑みを浮かべた。

「変なやつでしょ、私」

 そんな君も魅力的だ。……なんて言葉を吐けたら、どんなにいいだろう。でも残念ながら、柚彦には縁のないセリフだ。

「そんな事ないよ」

 そう言うのが精いっぱいだったけれど、沙羅ちゃんは少しだけ口角を上げて「ありがとう」と言ってくれた。

 他愛ない乙女心と言ってしまえば簡単だ。けれど人は誰もが透明の仮面を被っている。見せたい自分、こうありたいと思う自分。自己評価が極端に低い訳じゃない。なのに何故本当の自分を知られることを怖れるのだろう。もしそれを否定されたら、自己のアイデンティティが保てなくなるからだろうか。それ程までに脆弱な自我を抱え、人は生きているのだろうか。

 誰かに認められたい、価値のある人間だと思われたい。それは人としての本能に近いものだ。除夜の鐘を百八つ数えたところで決して無くなりはしない煩悩は、人という存在の中心に堂々と居座り、恐ろしいほどに自己を主張する。

「柚彦くん」

 そもそも本当の自分って何だろう。自分自身の本性など、正しく理解している人がいるのだろうか。ネット占いに「あなたの隠された性格」なんてのがあることが、誰もが自分を理解していない証拠だ。柚彦だって、自分がどんな人間かと問われたら答えに詰まる。

「柚彦くんってば!」

 沙羅ちゃんの呼びかけに我に返る。思考の沼に落ちてしまっていたようだ。沙羅ちゃんは一旦目を伏せ、再び顔を上げた。

「これからも友達でいてくれる?」

 言われて、柚彦は言葉が出ないまま大きく何度も頷いた。ふと、先程の「ありがとう」のアクセントが銀二さんに似ていた気がして、柚彦は尋ねた。

「沙羅ちゃん、出身は……?」

「神奈川生まれなんだけどね。二歳から最近まで大阪に住んでたの。それも結構田舎の方。……隠してた訳じゃないのよ」

 三度目の質問に漸くそう答えて、沙羅ちゃんは頼りなげな笑顔を見せた。

 明らかに隠していただろうと言いたかったが、それは言わない事にした。多くの人が抱えている秘密の多くは、客観的に見れば、秘密という言葉を使うに値しない程に些細なことだ。他者にとっては尚更、それは全くの取るに足らないことだったりする。けれど、本人は隠したいと思うのだ。それが明るみに出る事によって貼られてしまうレッテルを怖れ、他者の眼に映る自分自身の姿が変わることを怖れる。そんな事になるぐらいなら、関係を切り捨ててしまいたいとすら思う。

 人という生き物は、どうしようもなく弱い存在なのだと思った。だからこそ愛おしい。そう思う事は驕りだろうか。もちろん、その感情は多くの人に向けられることはないし、柚彦はそれ程お人良しではない。けれど。

「油揚げ、一つ食べる?」

 丼を差し出した柚彦に、今度は「おおきに」と微笑んで、沙羅ちゃんは油揚げを箸でつまんだ。

「天かす、あげるね。美味しいよ」

 レンゲで揚げ玉を掬い、柚彦の丼に大量に入れてくれる。何の躊躇もない仕草は、あまりにも自然で……。

 今、目の前にいる女の子を、柚彦は可愛いと思った。


 店を出ると、とたんに冷たい空気が身体を包んだ。二人同時に「寒い」と震え、顔を見合わせて笑う。おかしなものだ。一度は失意のどん底まで落とし込まれたというのに。けれど柚彦は彼女の笑顔が嬉しかった。沙羅ちゃんと柚彦の関係は「友達」が一番いいのかもしれない。そう思う事にした。無理矢理に。

 振り返ると、店の前に立つ信楽焼のたぬきが呑気な表情で二人を見送っていた。比べてはいけないのだろうが、自分の表情がまだ少々硬いような気がして、柚彦は凝っていた眉間を指先で揉んだ。美容男子ではないけれど、皺が寄ったら嫌だ。

「雪、降って来たよ」

 空を見上げて、沙羅ちゃんがはしゃぐ。どれだけ寒くても、空気中に白く舞うものを見ると笑顔になるのは、都会に住んでいる人間だからだろうか。

「積もるといいね」

 雪深い国の人たちは、同じものを見ても違う感情を抱くのだろう。安全な場所にいる自分たち。何も知らないからこそ、知ってしまっても平気でいられるだろうという根拠のない自信。広げた掌の上に落ちた半透明の欠片は、融けるというより消えるように見えなくなった。信楽焼のたぬきの頭にも、雪は少しずつ舞い落ちる。体温が無いせいか、たぬきに落ちた雪は、安心できる居場所を見つけたようにそこに留まった。柚彦の中に何とも表現しきれない感情が生まれ、形にならないまま消えていく。

 さてはこいつの幻術にかかったのかと、妙にくだらないことが頭に浮かんだ。

──タヌキの仕業か。なら仕方がない。

 頭の中でそう言葉にしたら、少しだけ気が楽になった。

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