おさびし山の住人

第12話

「いらっしゃいませ」

 守さんの声を聞いて入口に目をやった柚彦は、そこに立つ人物を見て「あっ」と声をあげそうになった。波打つ栗色の髪に包まれたシンメトリーな美貌。しなやかな曲線を持つ肢体にモスグリーンのスーツを纏って、その人は立っていた。小さな鈴を鳴らして開いた扉が、静かに閉じる。ヒールの踵がコツコツと小さく音を立てた。

「こんばんは」

 彼女は柚彦に微笑みかける。

「先日はどうも」

「いえ! こちらこそ、ありがとうございました」

 上半身を直角に折り曲げた柚彦の視界の端を、ピンヒールを履いた細い足首が通り抜ける。彼女はカウンターの真ん中のスツールに腰かけ、守さんにも笑顔を向けた。

「お久しぶり」

 え~! と叫びそうになるのを、柚彦は堪えた。知り合いなのか。もしかして元カノとか。自分の想像にショックを受け、その後で何故ショックを受けたのか分からなくて混乱する。水を出すのも忘れて、柚彦はその場に立ち竦んだ。

「憶えてないの?」

 守さんの表情は変わらない。その瞳を覗き込むようにして、彼女は暫く黙っていた。美男と美女である。元カノだったとしても納得できる。見詰め合う二人の横顔には、そこはかとない緊張が漂っていた。

「残念」

 止まっていた画が動き、細い指が額にかかる栗色の髪を払う。二色に塗り分けられた上品なネイルには、エメラルドグリーンの小さな石が付いていた。

「あの……」

 声を出したつもりが、掠れてしゃっくりのようになった。声を掛けてどうするつもりだったのか、柚彦自身にも分からない。ただ、この空気は何とも居心地が悪かった。

「嘘。……びっくりした?」

 彼女は不意に、少女のように茶目っ気たっぷりな笑みを浮かべた。「お」の形のままだった柚彦の口からは安堵の息が漏れた。

「初めまして。私ミムラって言います。美しい村で美村。よろしく」

 屈託なく自己紹介する様子は、先日電話ボックスで会った時と随分印象が違う。いや、車に乗ってからは、ややこんな感じだっただろうか。

「ミムラ姉さん」

 奥の肘掛椅子に座った銀二さんが声を掛けた。ミムラ姉さん──ムーミンに出てくる、ミイのお姉さんだ。よくまあ初めてのお客さんに、そんな声のかけ方をするものだと驚いていると。

「なあに? ヘムレンさん」

 彼女は、打てば響くように、そう返した。

「儂は髪の毛あるわい!」

 銀二さんも間を置かずにツッコミを入れる。漫才みたいだ。ちなみにヘムレンさんというのは、ムーミン谷で切手や植物の収集をしているお爺さんである。髪の毛は側頭部に少しずつしかない。

「かなわんなあ、もう」

 ふさふさした白髪頭を人差し指で掻いていた銀二さんは、暫くして降参するように両手を上げた。

「何を言おうとしてたか忘れてしもたがな」

 彼女がミムラ姉さんで、銀二さんがヘムレンさんなら、守さんはスナフキンかな。柚彦の脳内でイメージが重なる。物静かで穏やかな話し声。どこか孤独の影を纏う雰囲気。ぴったりだ。じゃあ僕は……。

「ねえムーミン」

「はい」

 明らかに自分に向けた呼びかけに、つい素直に返事してしまい、柚彦は顔が熱くなるのを感じた。ムーミンは嫌だ。主人公だけれど。

 銀二さんの大笑いが店中に響いた。

「姉さん、気に入ったわ。よっしゃ、一杯奢ろう」

 そう言って椅子から立ち上がろうとした銀二さんは、何故か途中で動きを止めた。中途半端に腰を浮かせた妙なポーズで固まったまま、口をパクパクさせる。

「銀二さん?」

「……腰、が」

 カウンターから守さんが飛び出した。ミムラさんと柚彦も慌てて駆け寄る。オールバックの白髪が一筋落ちた銀二さんの額に、大量の汗の粒が浮かんでいた。

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