ちつてと

古村あきら

ドッペルゲンガー

第1話

 ついさっきまで明るさを残していた夕方の空は、急激な天候の変化により瞬く間に表情を変えた。時間が倍速で進んだかのごとく辺りは一気に暗くなり、追いかけて来た雨が、逃げ込んだ硝子の箱をノックする。

──こういうのって、何か名前があったよな。

 電話ボックスの中でスマホを耳に当てるという妙なシチュエーションで、柚彦ゆずひこは、ふとそんな事を思った。ちなみに天気の事ではない。自分が置かれている状況についてだ。

「僕の、どこがいけなかったの?」

 問いかけに、電話の向こうで大きく息を吐くのが聞こえた。目の前にある硝子の扉に落ちた雨粒が次第に数を増していき、張り付いていた埃を洗い流していく。

「沙羅ちゃん……」

『そうじゃなくて』

 言葉は途切れ、再び沈黙が落ちる。電話ボックスは防音になっている筈なのに、雨の音がやけに大きく聞こえた。


 付き合い始めたのは、去年の秋だった。一般教養のクラスが同じ、国文専攻の彼女。地味な理系男子である柚彦にとって、文学部の女子たちは眩しすぎて、ちらちらと横目で見る事しか出来ないでいた。なのに、信じられないことに、彼女の方から告白されたのだ。最初は人違いだと思った。次に思い当たったのは罰ゲームだった。常識で考えて、大学生にもなってそんな下らないゲームはしないだろうが、その時は本気でそう思った。

『付き合ってください』

 ストレートな告白だった。黒髪のショートボブに少し垂れ目の二重瞼。小柄だがメリハリのあるスタイル。笑うと見えた大きめの前歯がリスのようで可愛かった。

『僕の、どこが気に入ったの?』

 付き合いだして二か月ほど経ったころだったろうか、そんな風に尋ねてみた。柚彦は、大学近くの、名前だけはマンションとついているワンルームのアパートに住む、いわゆる貧乏学生である。選択科目のせいで拘束時間が長く、要領のいい友人たちのように授業の合間を縫って上手に昼のバイトを入れられないので、同じ建物の地下にあるバーでアルバイトをしている。もちろん車も持っていない。デートもお洒落な店やテーマパークに行く予算はなく、景色のいい公園やショッピングモール、目いっぱい頑張って映画どまりだ。なのに彼女は文句ひとつ言わず、いつも楽しそうにしてくれていた。

『あのね……』

 彼女は心持ち顔を赤らめ、少しだけ目を泳がせた。

『白衣姿が格好良かったから』

 夏の終わりの夕方、キャンパスを白衣姿で走る柚彦を見てトキメイタ、のだと言う。詳しく聞いてみて、何の時だったのか見当がついた。四限目の化学実験の途中、柚彦のグループの一人が誤って濃硫酸の瓶を落として割ってしまったのだ。怪我人は出なかったが、実験室は一時パニックになった。

『あー、小杉くん』

 慌てふためく学生たちを冷めた眼差しで眺めながら、担当の中浦講師が柚彦を呼んだ。

『東棟の薬品庫までひとっ走り行って替えを取って来てくれるかな。棚の鍵は掛かってないから』

 3と書かれた札の付いた鍵を渡され、柚彦は実験室を出た。木々の間を吹きぬける風がヒューヒューと吹雪のような音を立てる、風の強い日だった。針葉樹のざわめきに急かされるように柚彦は駆け出した。急げと言われた訳ではないのに、吹きすさぶ風の中をひたすら走った。後で中浦講師に聞いた話によると、こういう失敗は日常茶飯事で、怪我人さえ出なければ事故とすら認識されないらしい。けれどその時の柚彦は、一刻も早く任務を遂行しなければいけないような気がしていて、きっと血相を変えて走っていたに違いない。

『とても真剣な顔で走っていて、白衣の裾が風にはためいていて』

 それが素敵だったの、と彼女は言った。


 一年後、ラインで別れを告げられた。ようやく暑さが和らいだ秋の夕暮れに、帰宅途中の柚彦を襲った衝撃だった。電話の途中で降り始めた雨を避けるために入った電話ボックスの中で、柚彦は彼女に尋ねた。

「僕の、どこがいけなかったの?」

 きっと明確な答えは返ってこないのだろう。何が気に入って何が嫌になったのか、柚彦からしたら、どちらも謎である。理由はきっとあるのだろう。そう思うしかなかった。

『もう好きじゃなくなったの。何もかも全然ときめかなくなったの。ごめんね。さよなら』

 容赦ないセリフが柚彦を打ちのめす。何か言おうとしても言葉が出て来ず、柚彦は同じ姿勢のまま固まっていた。視界の隅に公衆電話の緑色が見えた。

──そうだ。蛙化現象かえるかげんしょうだ。

 何かがに落ちた気がした途端、通話は切れた。

 スマホに表示された通話終了のメッセージが暗くなり、暫くして真っ黒な画面に自分の顔が映り込んでいるのに気付く。途方に暮れた表情が、他人事のように可笑しかった。

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