エピローグ:風の止まるところ

 朝。


 薄曇りの空の下、畑に出たナギは、少し背を伸ばした。


 土のにおいがする風が、額の髪を撫でていく。

 季節がほんの少し、夏から秋へと傾きはじめていた。


「……今日も、変わらずいい風だな」


 傍らでは、神原が小さな果実の苗を植えていた。


「おい、水汲みは任せるぞー」


「はいはい。ちょっと待っててください」


 


 その声のやり取りも、今ではすっかり日常になっていた。


 最初はぎこちなかった村人たちとも、今では肩を並べて働けるようになった。

「異邦人」ではなく、「仲間」として。


 ユウは近くの木陰でスケッチブックを広げていた。


「今日はね、丘から見た“風の色”を描いてるの」


「風に色なんてあったのか?」


「あるよ。見えるひとにはね」


 


 ◆


 


 昼下がり。


 ナギは納屋の影で、小さな木の板に刻みを入れていた。


「何してるの?」とライラが訊ねてきた。


「看板を作ってるんです。“ナギの畑”って名前で」


 ライラは少し驚いたように目を丸くし、それから微笑んだ。


「名前をつけるって、不思議なことね。

 それだけで、そこに“意味”が宿るもの」


「はい。でも、それが大事な気がして」


 


 名を持つことは、選ぶこと。


 選ぶことは、生きること。


 この場所で、名を呼ばれ、名を返す。

 それだけの繰り返しが、確かに“人生”を形作っていく。


 


 ナギは、自分の名前をもう一度胸の中で繰り返した。


 ナギ。風が止まり、音が静かになる場所。


 それが、彼の“生きる場所”になった。


 


 ◆


 


 夕暮れ。


 空の色がゆっくりと茜色に染まっていく。


 神原がぽつりと呟いた。


「たぶん、俺たちは……“終わり”じゃなくて、“始まり”にいるんだな」


 ナギは頷いた。


「そうですね。まだ何も知らなくて、でも、これから少しずつ“わかっていく”感じ」


 神原は笑った。


「それが、スローライフってやつなんだよ。

 急がず、流されず、でも止まらずに――風みたいに、な」


 


 風がまたひとつ吹き抜けた。


 どこかへ続く音を運ぶでもなく、ここに留まってくれるような、やわらかな風。


 


「……ただいま」


 ナギがふと、空に向かってそう呟いた。


 誰にともなく、けれど確かに届くように。


 


 ――風のむこうで、彼の旅は終わり、


 ここで、新しい日々がはじまる。



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