第27話 最後のまかない



朝はまだ暗い。


ましろは、いつもより早く台所に立っていた。窓の外には、夜明け前の深い藍色が広がっている。静寂の神殿は、まだ眠りの中にあった。


米を研ぐ音が、静かに響く。


水の冷たさが、指先から伝わってくる。一粒一粒が、手のひらで転がる感触。何度も繰り返してきた作業なのに、今朝は特別に感じられた。


かまどに火を入れる。


薪がパチパチと音を立て始め、やがて安定した炎になる。その温もりが、頬を優しく撫でる。炎の色は、朝の訪れとともに少しずつ変化していく。


出汁を取る。


昆布を水に浸し、ゆっくりと温度を上げていく。泡が立ち始める直前で引き上げ、鰹節を加える。香ばしい匂いが、台所全体に広がった。


野菜を切る。


人参、牛蒡、蓮根、椎茸。包丁が俎板に当たる音が、リズムを刻む。それぞれの野菜が持つ固さ、香り、色合い。全てが、手を通じて伝わってくる。


「早いね」


振り返ると、トトが座っていた。いつもの場所に、いつものように。


「今日は特別だから」


「そう」


トトは、ましろの手元をじっと見つめる。その瞳に、何か言いたげな光が宿っていたが、口には出さない。


醤油と酒、味醂を合わせる。


調味料が混ざり合う時の、かすかな音。色が変化していく様子。甘みと塩味のバランスを、舌で確かめる。


「最初の時と、同じ分量?」


「少し違う」


ましろは、小さく微笑んだ。


「あの時は、手探りだった。でも今は、皆の好みが分かるから」


そう。イザナは薄味を好み、カグツチは少し濃い目が良い。セリナは甘みを、ユリウスは出汁の風味を大切にする。


その全てのバランスを取った、今日だけの味。


炊飯釜に、具材を丁寧に並べていく。


米の上に、味付けした野菜を乗せ、出汁を注ぐ。最後に、薄く切った油揚げを散らす。蓋をして、火にかける。


じわじわと温度が上がっていく音。


蒸気が漏れ始め、甘い香りが立ち上る。火加減を調整しながら、ましろは待つ。この時間が、一番好きだった。


料理が出来上がるのを待つ時間。


それは、ただ待つだけではない。音に耳を澄まし、香りの変化を感じ、火の様子を見守る。料理と対話する時間。


「ましろ」


リタが、台所に入ってきた。目を擦りながら、でも、しっかりとした足取りで。


「手伝います」


「ありがとう。じゃあ、お味噌汁をお願い」


リタは頷いて、慣れた手つきで準備を始める。豆腐を切り、葱を刻み、味噌を溶く。その姿を見て、ましろは思う。


最初は、何も出来なかった少女が、今ではこんなにも成長した。


パリッと音がした。


炊き込みご飯の底に、お焦げが出来始めた合図。火を弱め、もう少しだけ待つ。


窓の外が、少しずつ明るくなってきた。


朝日が、東の空を赤く染め始める。神殿の白い壁が、薄紅色に染まっていく。新しい一日の始まり。


そして、ましろにとっては、新しい旅の始まりでもある。


「出来た」


蓋を開けると、湯気と共に香ばしい匂いが溢れ出る。艶やかに炊き上がった米、色鮮やかな野菜、全てが完璧に調和している。


「わあ」


リタが、感嘆の声を上げる。


「美味しそう」


「皆を呼んできて」


リタが駆け出していく足音を聞きながら、ましろは炊き込みご飯を器に盛り付けていく。一つ一つ、丁寧に。


最初に現れたのは、カグツチだった。


「朝から良い匂いだと思ったら」


そう言いながら、いつもの席に座る。続いて、セリナ、ユリウス、ジルも集まってきた。


そして最後に、イザナが静かに入ってきた。


全員が揃った食卓。


それぞれの前に、炊き込みご飯とお味噌汁、そして小鉢が並ぶ。いつもと変わらない朝食のように見えて、でも、誰もがその特別さを感じていた。


「いただきます」


声を合わせて、手を合わせる。


そして、一口。


最初に口に運んだのは、イザナだった。ゆっくりと咀嚼し、目を閉じる。その表情に、かすかな変化が現れた。


「この味は」


「最初の日と、同じですか?」


イザナは、首を横に振る。


「いや、違う。もっと、深い」


カグツチも、黙々と食べながら頷く。


「確かに。前のは、どこか他人行儀な味だった。これは」


言葉を探すように、少し間を置く。


「家族の味だ」


セリナが、涙ぐむ。


「本当ね。みんなの好みが、ちゃんと入ってる」


ユリウスも、珍しく饒舌になる。


「味とは、記憶と経験の集積。この一椀に、我々と過ごした時間が詰まっている」


その通りだった。


同じ炊き込みご飯でも、最初とは違う。あの時は、ただ美味しいものを作ろうとしただけ。でも今は、一人一人の顔を思い浮かべながら作った。


それが、味の違いになって現れている。


静かに、でも温かく、朝食の時間が流れていく。


誰も、別れについては口にしない。ただ、いつもより一口一口を大切に味わっているのが分かる。


「おかわり」


カグツチが、珍しく椀を差し出す。


「私も」


セリナも続く。


ましろは微笑んで、炊飯釜から追加をよそう。まだ温かい湯気が、ふわりと立ち上る。


「ねえ、ましろ」


リタが、小さな声で言う。


「この味、私に教えてください。レシピを」


「もちろん」


「でも、同じ味にならないかもしれない」


「それでいいの」


ましろは、リタの頭を優しく撫でる。


「リタが作れば、リタの味になる。それが、料理の面白さよ」


食事が終わりに近づいた頃、イザナが立ち上がった。


「ましろ」


「はい」


「この炊き込みご飯を、忘れない」


短い言葉だったが、その中に多くの想いが込められているのが分かった。


他の神々も、それぞれの言葉を紡ぐ。


「また作ってくれ。必ず」


カグツチの言葉は、命令のようで願いのようだった。


「いつでも、ここはあなたの居場所よ」


セリナは、ハンカチで目元を押さえながら。


「時は全てを変える。だが、味の記憶は残る」


ユリウスは、哲学的な言葉で想いを包む。


「行ってらっしゃい」


ジルは、シンプルに。でも、その声には温かさがあった。


そして、トトが膝の上に飛び乗ってくる。


「早く帰ってこいよ」


「うん」


小さな体を抱きしめると、柔らかい毛の感触と温もりが伝わってきた。


食卓を片付ける時、皆が手伝ってくれた。


いつもは、ましろとリタの仕事なのに。カグツチが皿を運び、セリナが洗い物をし、ユリウスが拭く。イザナまでもが、テーブルを片付けていた。


その光景を見て、ましろは胸が熱くなる。


これが、自分がここで築いたもの。料理を通じて生まれた、温かな繋がり。


全ての片付けが終わると、ましろは台所を見渡した。


ピカピカに磨かれた調理器具、整然と並んだ食器、きれいに拭かれたかまど。最初に来た時と同じように見えて、でも、全てが違う。


ここには、無数の記憶が宿っている。


失敗した料理、大成功した献立、皆で囲んだ鍋、一人で作った夜食。笑い声、ため息、沈黙、歌。全てが、この空間に染み込んでいる。


「ましろさん」


リタが、遠慮がちに声をかける。


「これ、持っていってください」


差し出されたのは、小さな巾着袋だった。


「開けてもいい?」


「はい」


中には、乾燥させた出汁昆布と、小分けにした調味料が入っていた。


「旅先でも、いつもの味が出せるように」


リタの心遣いに、ましろは深く頭を下げる。


「ありがとう。大切に使うね」


陽が高くなってきた。


出発の時間が近づいている。ましろは、最後にもう一度、台所を振り返る。


ここで過ごした日々は、宝物だ。


病院での疲れ切った日々から、ここに来て、新しい自分を見つけた。料理の本当の意味を、改めて知った。


それは、ただ栄養を摂るためのものではない。


心を繋ぎ、傷を癒し、喜びを分かち合うためのもの。そして時に、言葉にできない想いを伝える手段にもなる。


「行ってきます」


台所に向かって、小さく呟く。


まるで、古い友人に別れを告げるように。


外に出ると、神々が皆、見送りに来ていた。


朝の光の中、それぞれが思い思いの場所に立っている。でも、視線は全て、ましろに向けられていた。


「では」


ましろが一礼すると、皆も軽く頭を下げる。


大げさな別れの言葉はない。ただ、静かな祈りのような時間が流れる。


歩き始めようとした時、イザナが一歩前に出た。


「ましろ」


「はい」


「必ず、戻ってこい」


それは、命令でも願いでもなく、約束のような響きだった。


「はい。必ず」


ましろも、しっかりと答える。


そして、歩き始める。


一歩、また一歩と、神殿から離れていく。でも、不思議と寂しさよりも、温かさを感じていた。


振り返ると、皆がまだそこに立っている。


小さく手を振ると、リタが大きく手を振り返してくれた。カグツチは腕を組んだまま頷き、セリナは涙を拭いながら手を振る。ユリウスは本を抱えたまま、ジルは相変わらずの無表情で、でも確かに見送ってくれている。


そして、イザナ。


白い衣が、朝の風に揺れている。その姿は、まるで守護神のように、ましろを見守っているようだった。


もう一度、深く頭を下げる。


そして、前を向いて歩き出す。


新しい道が、前に延びている。その先に何があるかは分からない。でも、怖くはない。


なぜなら、帰る場所があるから。


静寂の神殿、あの温かな台所、そして待っていてくれる家族のような神々。


炊き込みご飯の香りが、まだかすかに服に残っている。


その香りを胸に、ましろは新しい一歩を踏み出した。


空は、どこまでも青く澄んでいた。

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