第25話 鍋と、願い事の夜
初冬の風が、神殿に吹き込んでいた。
朝から、細かな雨が降っている。しとしとという音が、静かな神殿に響く。こんな日は、温かいものが恋しくなる。
ましろは、大きな土鍋を棚から下ろした。使い込まれた土鍋は、底が少し黒ずんでいる。何度も火にかけられ、たくさんの料理を作ってきた証だ。
今夜は、皆で鍋を囲むことにしたのだ。旅立ちの前に、もう一度、全員で温かいものを食べたかった。
「鍋、久しぶりね」
セリナが、野菜を運びながら言った。籠いっぱいの野菜。白菜、長ネギ、椎茸、えのき、春菊。色とりどりの野菜が、美しく並んでいる。
「寒くなってきましたから」
「体が温まりますから」
ましろは、野菜を洗いながら答えた。白菜は一枚一枚丁寧に洗い、食べやすい大きさに切る。シャクシャクという音が、心地よい。
長ネギは斜め切りに。包丁が斜めに入ると、断面が美しい楕円形になる。椎茸は石づきを取って、飾り切りを入れる。十字の切れ込みが、見た目にも美しい。
「手伝います」
リタが、エプロンをつけて現れた。最近は、包丁使いもすっかり上手になった。えのきの根元を切り落とし、小房に分ける手つきも慣れたものだ。
出汁の準備も大切だ。昆布を水に浸けておいたものを、弱火にかける。沸騰する直前に昆布を取り出し、かつお節を加える。一度濾して、澄んだ出汁の完成だ。
「いい匂い」
風くんが、台所の隅に姿を現した。最近は、ほとんど実体化できるようになっている。透明感は残っているが、表情もよくわかる。
「今日は鍋だよ」
ましろが声をかけると、風くんは嬉しそうに頷いた。
「肉は?」
カグツチが、期待に満ちた顔で聞いた。いつの間にか、台所を覗いている。
「鶏肉と、豚肉を用意しました。それから、お魚も」
「豪華だな」
確かに、いつもより豪華だった。でも、これが最後の……いや、そう考えるのはやめよう。また必ず、この場所で鍋を囲むのだから。
鶏肉は、一口大に切る。豚肉は薄切り。魚は、鱈の切り身を用意した。どれも、鍋に合う食材だ。
豆腐も忘れずに。絹ごし豆腐を、大きめの賽の目に切る。プルプルとした感触が、指先に心地よい。
「準備はできたかな」
イザナの声がした。珍しく、食事の前から食堂に来ているようだ。
「はい、今運びます」
大きな土鍋を食卓の中央に置く。卓上コンロに火をつけ、出汁を注ぐ。じわじわと温度が上がり、湯気が立ち始めた。
「さあ、座って座って」
トトが、皆を急かす。
神々が、一人また一人と席についた。イザナ、カグツチ、セリナ、ユリウス。そして、リタと風くん。
いつもより、皆の距離が近い。鍋を囲むと、自然とそうなる。顔を寄せ合い、同じ鍋から取り分ける。それだけで、心の距離も縮まる気がする。
「では、始めましょうか」
ましろが白菜を入れると、じゅわっと音がした。その音に、皆の顔がほころぶ。
「私は肉から」
カグツチが、さっそく鶏肉を投入した。
「野菜も食べなさい」
セリナが、母親のように注意する。でも、その声は優しい。
鍋を囲む。それだけで、場が和む。湯気の向こうに見える皆の顔が、柔らかい。ぐつぐつという音が、心地よいBGMのようだ。
「熱い、熱い」
リタが、豆腐を頬張って慌てている。
「ゆっくり食べなさい」
ユリウスが、珍しく優しい声で注意した。
「そういえば」
ユリウスが、鍋をつつきながら言った。
「人間界では、鍋を囲む時に願い事をする習慣があると聞いたが」
「ああ、年越しの時とかにね」
ましろが頷いた。子供の頃、家族で鍋を囲んだ時のことを思い出す。
「じゃあ、今夜もそうしましょう」
リタが提案すると、皆が賛成した。
「誰から?」
「じゃあ、私から」
セリナが、少し考えてから口を開いた。箸を置いて、皆の顔を見回す。
「皆が、健康でいられますように」
シンプルだけど、心のこもった願い。母のような優しさが、その言葉に込められている。
「次は俺だ」
カグツチが、箸を置いた。大きな手を、膝の上で組む。
「ましろが、無事に旅から帰ってきますように」
その言葉に、ましろの胸が熱くなった。不器用だけど、真っ直ぐな願い。
「私は……」
ユリウスが、珍しく言い淀んだ。眼鏡を外して、レンズを拭く。考えを整理しているようだ。
「この時間が、永遠に続きますように」
時間の神の願いとしては、皮肉なものかもしれない。永遠などないことを、誰よりも知っているはずなのに。でも、その気持ちは痛いほどわかった。
「私は、もっと料理が上手くなりますように」
リタの願いは、実直だった。この数ヶ月で、彼女は本当に成長した。でも、まだまだ学びたいことがたくさんあるのだろう。
風くんは、しばらく黙っていた。透明な手で、茶碗を握りしめている。それから、小さな声で言った。
「自分が……誰なのか、思い出せますように」
その言葉に、皆が風くんを見つめた。彼の正体は、まだ誰にもわからない。記憶を失った精霊。でも、きっといつか、思い出す日が来る。
「ましろは?」
トトに促されて、ましろは息を吸った。言いたいことはたくさんある。でも、一番大切なことは一つだ。
「皆さんと、また必ずこうして鍋を囲めますように」
その言葉に、セリナの目が潤んだ。カグツチは、ごほんと咳払いをして顔を背けた。
最後に、皆がイザナを見た。
イザナは、静かに立ち上がった。銀髪が、湯気の向こうで揺れる。そして、窓の外を見つめながら言った。
「どうか、もう一度……」
でも、その先は言わなかった。
言いかけて、唇を噛む。その横顔に、深い苦悩が浮かんでいる。
ただ、その横顔に浮かんだ表情を、ましろだけが見ていた。深い悲しみと、かすかな希望が入り混じった表情を。
なぜだろう。その表情を見ていると、胸が締め付けられる。まるで、自分も同じ願いを持っているような。
*どうか、もう一度あの約束を思い出さないでほしい。*
イザナの心の声が、なぜか聞こえた気がした。いや、気のせいだろう。でも、胸がざわついた。
約束? 何の約束だろう。
最近、夢に出てくる誰かとの約束。顔は見えないが、とても大切な約束。それと関係があるのだろうか。
「さあ、冷めないうちに食べましょう」
セリナの声で、皆が我に返った。
再び箸が動き始める。肉も野菜も、ちょうど良い具合に煮えていた。鍋の中で、様々な味が混ざり合い、深い旨味を生み出している。
「この豆腐、美味しい」
風くんが、嬉しそうに言った。最近は、味の感想も言えるようになった。
「出汁が染みてるからね」
ましろが答えると、風くんは満足そうに頷いた。
皆で取り分け、皆で食べる。時々、具の取り合いになったり、誰かが誰かの分まで食べてしまったり。
「あ、それ私の肉!」
「早い者勝ちだ」
リタとカグツチが、子供のような言い合いをしている。
そんな些細なことが、とても愛おしい。
鍋の中身が少なくなってきた頃、ユリウスが提案した。
「〆は何にする?」
「雑炊がいい」
風くんの提案に、皆が賛成した。
残った出汁に、ご飯を入れる。ぐつぐつと煮えてきたら、溶き卵を回し入れる。黄色い糸が、美しい模様を描く。
最後に刻んだ青ネギを散らして、完成だ。
「ふぅ、お腹いっぱい」
リタが、幸せそうにお腹をさすった。頬が、ほんのりと赤い。
「良い夜だった」
ユリウスも、珍しく感慨深げだ。眼鏡を外して、目頭を押さえている。
「また、やろうな」
カグツチの言葉に、皆が頷いた。
片付けを終えて、ましろが自室に戻ろうとした時、イザナに呼び止められた。
「ましろ」
「はい」
イザナは、廊下の奥へとましろを導いた。人気のない回廊で、二人は向かい合った。
「旅立つ日が決まったら、教えてくれ」
「もちろんです」
イザナは、何か言いたそうにしていた。口を開きかけては閉じ、また開きかける。まるで、言葉を探しているような。
「イザナ様?」
「いや……なんでもない」
でも、その瞳は多くを語っていた。言いたいこと、言えないこと、言ってはいけないこと。全てが、その銀色の瞳の中で渦巻いている。
「ただ、一つだけ」
イザナは、ましろの肩に手を置いた。冷たい手だった。でも、その冷たさの奥に、熱いものを感じる。
「無理に思い出そうとするな」
「え?」
「何か、忘れていることがあったとしても。それは、きっと理由があって忘れているのだから」
謎めいた言葉だった。ましろは、イザナの顔を見上げた。
「私、何か忘れているんですか?」
イザナは答えなかった。ただ、寂しそうに微笑んだだけ。
「おやすみ、ましろ」
そう言って、イザナは踵を返した。銀髪が、月光の中で揺れる。その後ろ姿が、ひどく孤独に見えた。
部屋に戻ると、窓から冬の星座が見えた。オリオン座が、くっきりと輝いている。神殿の空は澄んでいて、星がよく見える。
ましろは、日記帳を開いた。今日のことを書き留めようと思ったが、ペンが進まない。
皆の願い事。イザナの言いかけた言葉。そして、謎めいた忠告。
全てが、頭の中でぐるぐると回っている。
旅立ちの日は、近い。
でも、何か大切なことを置いていくような気がしてならない。それが何なのか、わからないけれど。
ふと、窓辺に風を感じた。
「風くん?」
返事はない。でも、確かに誰かがいる気配がする。
「眠れないの?」
すると、風くんが姿を現した。いつもより、実体がはっきりしている。
「ましろ……行っちゃうの?」
その声は、震えていた。
「必ず帰ってくるよ」
「本当?」
「約束する」
風くんは、じっとましろを見つめた。その瞳に、何か言いたげな光が宿っている。
「僕も、何か忘れてる気がする」
風くんの言葉に、ましろは驚いた。
「大切な何か。でも、思い出せない。思い出そうとすると、胸が苦しくなる」
それは、ましろも同じだった。最近よく見る夢。誰かとの約束。思い出そうとすると、頭が痛くなる。
「いつか、きっと思い出せるよ」
ましろは、風くんの透明な手を握った。冷たいけれど、確かな感触がある。
「一緒に、思い出そう」
風くんは、小さく頷いた。そして、ゆっくりと姿を消していった。
一人になった部屋で、ましろは布団に入った。
今夜も、夢を見るだろうか。誰かとの約束の夢を。
目を閉じると、鍋を囲んだ皆の顔が浮かんでくる。笑顔、願い事、温かい湯気。
この幸せな時間を、忘れたくない。
でも、忘れてしまった何かも、取り戻したい。
相反する思いを抱えながら、ましろは眠りに落ちていった。
その夜、ましろは不思議な夢を見た。
誰かと、約束をしている夢。顔は見えない。でも、とても大切な約束。月の下で、手を取り合って。
「必ず、戻ってくる」
自分がそう言っている。
「待っている。百年でも、千年でも」
相手の声が、どこか聞き覚えのある……
でも、それが誰なのか、思い出せない。
目が覚めると、枕が濡れていた。
なぜ泣いていたのか、わからない。
でも、胸の奥に、何か大切なものを忘れている感覚だけが残っていた。
窓の外では、雪が降り始めていた。
初雪。
神殿の庭が、静かに白く染まっていく。
旅立ちの前に、雪見の宴もしたい。
まだ、やり残したことがたくさんある。
ましろは、ベッドから起き上がった。
今日も、皆のために料理を作ろう。
それが、今の自分にできる、一番大切なことだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます