第20話 卵雑炊と「おかえりなさい」
朝靄が、神殿を優しく包んでいた。
ましろは、いつもより早く目を覚ました。体が重い。喉が痛む。どうやら、昨夜縁側で月を見ていて、風邪をひいたらしい。
それでも、台所に立とうとする。イザナとの約束があるから。粥を作ると——
「だめよ」
リタが、ましろを押しとどめた。
「今日は休んでください。私が代わりに」
「でも……」
「ましろ様が倒れたら、みんな困ります」
リタの真剣な眼差しに、ましろは布団に戻ることにした。
部屋で横になっていると、昨夜のことが思い出される。
月光の下でのイザナとの会話。前任者の話。そして、魂が覚えているという、あの感覚——
うとうとと眠りに落ちかけた頃、扉が静かに開いた。
「……イザナ様?」
銀髪の神が、盆を持って立っている。その姿に、ましろは目を疑った。
「起きていたのか」
イザナは部屋に入ると、枕元に盆を置いた。
湯気の立つ土鍋。蓋を開けると、卵雑炊の優しい香りが広がった。
「これ……」
「作ってみた」
神は淡々と言うが、よく見ると指先に小さな切り傷がある。不慣れな包丁仕事の跡だろう。
さらに、エプロンの端に卵の殻がくっついている。きっと、何度も失敗したのだろう。
ましろは、震える手で匙を取った。
一口、含む。
——温かい。
米の甘み、出汁の旨み、卵のまろやかさ。すべてが優しく溶け合って、体の芯まで染み渡る。
でも、それ以上に——
込められた想いが、伝わってくる。不器用だけれど、真っ直ぐな優しさが。
「美味しい……」
涙が、ぽろりとこぼれた。
なぜ泣いているのか、自分でも分からない。ただ、懐かしくて、温かくて、切なくて。
「泣くほど、まずかったか」
イザナが困ったような顔をする。その表情が可笑しくて、ましろは涙混じりに笑った。
「違います。とても、美味しいです」
雑炊を、ゆっくりと食べる。一口ごとに、体が温まっていく。
そして、一口ごとに、何かが蘇ってくる。
遠い記憶。封じられていた想い。
食べ終わると、イザナは椀を受け取った。そして、ましろの額に手を当てる。
冷たい手。けれど、不思議と心地いい。
「熱がある」
「少しだけ……」
「無理をするな」
イザナは、ましろの髪をそっと撫でた。その仕草があまりに自然で、まるで何度もしたことがあるかのようで。
その瞬間、ましろの中で何かが弾けた。
記憶が、激流のように押し寄せてくる。
百年前の光景。
同じようにこの神殿で、まかないを作っていた自分。
銀髪の美しい神と過ごした、穏やかな日々。
少しずつ育まれた、特別な想い。
そして、あの約束——
『必ず、また会おう。たとえ生まれ変わっても、魂は覚えている』
涙を流しながら、最後の別れ。
人としての命が尽きる時、交わした誓い。
「イザナ……ギ」
ましろの口から、知らないはずの名前がこぼれた。
イザナの瞳が、大きく見開かれる。
「今、なんと」
「守護神イザナギ様……」
その真名を口にした瞬間、すべてが繋がった。
自分は、百年前のまかない係の生まれ変わり。
そして、イザナギとは——
「思い出した……全部、思い出した」
涙が、止まらない。
嬉しくて、切なくて、愛おしくて。
百年の時を超えて、やっと、やっと——
「ましろ」
イザナギが、震える声で名を呼ぶ。
そして、静かに言った。
「おかえりなさい、ましろ」
その瞬間、ましろは泣き崩れた。
ただいま、と言いたかった。けれど、声にならない。
代わりに、差し出された手を、強く握った。
冷たい手。けれど、この手の温もりを、魂が覚えている。
「待っていた……ずっと、待っていた」
イザナギの声も、震えていた。
神の瞳から、一粒の涙がこぼれる。
——神様も、泣くんだ。
ましろは、その涙を、震える指でそっと拭った。
「ごめんなさい。百年も、待たせてしまって」
「謝ることはない」
イザナギは、ましろの手を両手で包んだ。
「君が帰ってきてくれた。それだけで、十分だ」
二人は、しばらく無言で手を握り合っていた。
百年の時を超えた再会。
言葉はいらない。ただ、お互いの存在を確かめ合う。
やがて、扉が静かに開いた。
「失礼しま……あら」
セリナが顔を出し、二人の様子を見て、優しく微笑んだ。
「やっと、思い出したのね」
続いて、カグツチ、ユリウス、リタ、トトも入ってきた。
皆、知っていたのだ。
ましろが誰なのか。なぜここに来たのか。
「みんな……」
「おかえり、ましろ」
セリナが、涙を浮かべながら言った。
「ずっと、待っていたのよ。あなたが帰ってくるのを」
カグツチも、不器用に頭を下げた。
「その……なんだ。また、うまい飯を頼む」
ユリウスは、いつもの本を閉じて言った。
「時は巡り、約束は果たされた。これもまた、運命」
リタは、ぽろぽろと涙を流していた。
「ましろ様……ううっ、よかった……」
トトが、ベッドに飛び乗ってきた。
「やっと思い出したのね。まったく、遅いんだから」
けれど、精霊猫の瞳も潤んでいた。
ましろは、皆を見回した。
温かい。
こんなにも、温かい。
百年前と変わらない、神殿の家族。
いや、一つだけ変わったことがある。
今度は、もう離れない。
人の命は短くても、魂の絆は永遠だと知ったから。
「これからも、よろしくお願いします」
ましろが言うと、皆が笑顔で頷いた。
窓の外では、朝靄が晴れ始めていた。
新しい一日が始まる。
けれど、それは同時に、百年越しの物語の続きでもある。
ましろは、イザナギの手を握ったまま、静かに微笑んだ。
ただいま。
そして、これから——
神殿に、穏やかな朝の光が差し込んでいた。
それは、新しくて懐かしい、始まりの光だった。
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