第14話 神殿の花嫁伝説


 夕立が去った後の中庭は、雨の香りに包まれていた。濡れた石畳が夕日を反射し、きらきらと輝いている。ましろは洗い物を終え、リタと一緒に豆の選別をしていた。


「ねえ、ましろさん」


 リタが小豆を より分けながら口を開いた。


「なあに?」


「この神殿には、昔から伝わる言い伝えがあるんです」


 少女の声が、いつもより小さい。何か言いづらいことでもあるのだろうか。


「どんな言い伝え?」


 リタは手を止め、ましろの顔を見上げた。


「『神殿の花嫁』の話です」


 ——瞬間、ましろの手が止まった。


 なぜだろう。その言葉を聞いた途端、胸の奥がざわめいた。知らないはずの言葉なのに、どこか懐かしいような、恐ろしいような、不思議な感覚。


「……聞かせて」


 ましろは努めて平静を装い、微笑んだ。でも、手にした小豆が、かすかに震えている。


 リタは窓の外を見つめながら、ゆっくりと語り始めた。


「ずっと昔、まだこの神殿ができて間もない頃のことです。人間の女性が一人、この神殿で暮らしていたそうです」


 風が吹いて、窓辺の風鈴が鳴った。ちりん、と澄んだ音。


「その女性は、とても料理が上手で、神々に愛されていました。特に、神殿の主である神様は、その女性を深く……」


 リタは言葉を濁した。


「深く?」


「……愛していた、と」


 ましろの心臓が、どくんと跳ねた。


「それで、その女性は神様の花嫁となったんです。でも」


 リタの表情が曇った。


「でも?」


「ある日、突然姿を消してしまったそうです。理由は誰も知りません。神様も、他の神々も、何も語らないんです」


 小豆が、ぱらぱらと音を立てて籠に落ちていく。その音だけが、静かな台所に響いていた。


「それから百年以上、この神殿には人間のまかない係が来なかったそうです。ましろさんが来るまで」


 リタはましろを見つめた。


「私、時々思うんです。ましろさんを見ていると、なんだか……」


「なんだか?」


「その伝説の女性と、重なるような気がして」


 ましろは苦笑いを浮かべた。


「まさか。私はただの料理人よ」


 でも、心の奥で何かがささやく。本当にそうだろうか、と。


 その時、扉が開いてルカが飛び込んできた。


「ましろさん! 中庭に綺麗な花が咲いてるよ!」


 話題が変わったことに、ましろは内心ほっとした。立ち上がって、ルカの案内で中庭へ向かう。


 確かに、雨上がりの中庭には、見たことのない白い花が咲いていた。月光を浴びたように、ほのかに光っている。


「わあ、綺麗」


 リタも目を輝かせた。


「これは『記憶花(きおくか)』ね」


 振り返ると、セリナが立っていた。豊穣の女神は、優しく花に触れる。


「百年に一度しか咲かない、珍しい花よ。咲く時は、必ず大切な出会いか別れがある時」


 セリナの瞳が、一瞬ましろを見つめた。その眼差しに、何か意味深なものを感じる。


「前に咲いたのは、いつですか?」


 ましろの問いに、セリナは少し考えてから答えた。


「ちょうど百年ほど前かしら。詳しくは覚えていないけれど」


 ——百年前。神殿の花嫁が消えた時期と重なる。


 偶然だろうか。それとも——


「あら、記憶花が咲いたのね」


 カグツチも中庭に現れた。火の神は花を見つめ、複雑な表情を浮かべる。


「懐かしいな。前に見た時は……」


 言いかけて、口をつぐんだ。


「前に見た時は?」とルカが尋ねる。


「……いや、なんでもない」


 カグツチは慌てたように背を向けた。


 夕暮れの光の中、白い花は静かに揺れている。まるで、失われた記憶を呼び覚まそうとするかのように。


 その夜、ましろは眠れなかった。


 神殿の花嫁。その言葉が、頭から離れない。なぜこんなにも心がざわつくのか。ただの言い伝えのはずなのに。


 ベッドから起き上がり、窓辺に立つ。月明かりに照らされた神殿は、いつもより神秘的に見えた。


 ふと、誰かの視線を感じて振り返る。


 回廊の向こうに、イザナの姿があった。銀髪の神は、じっとこちらを見つめている。その瞳に宿るのは、いつもの無表情ではない。もっと深い、複雑な感情。


 ましろが瞬きをした瞬間、イザナの姿は消えていた。まるで幻だったかのように。


 翌朝、ましろはいつもより早く起きて、台所に立った。


 何か作らなければ。手を動かしていないと、考えすぎてしまいそうで。


 ふと、昨日選別した小豆が目に入った。そうだ、お汁粉を作ろう。甘いものは、心を落ち着かせてくれる。


 小豆を煮始めると、台所に優しい香りが広がった。ことこと、ことこと。鍋の中で小豆が踊る音が、心地良い。


「早いな」


 ユリウスが現れた。時間の神は、いつもの黒衣姿で、本を片手にしている。


「眠れなくて」


 正直に答えると、ユリウスは小さく頷いた。


「記憶花のせいか」


「……ご存知なんですか? 花嫁の伝説」


 ユリウスは鍋を覗き込みながら答えた。


「知っている。私は時を司る者。過去も未来も、すべて見通すことができる」


「じゃあ、本当のことを——」


「だが」ユリウスが遮った。「知っていることと、語ることは別だ。時には、知らない方が幸せなこともある」


 その言葉に、ましろは口をつぐんだ。


 ユリウスは静かに続ける。


「ただ、一つだけ言えることがある。あの花嫁は、決して不幸ではなかった。最後まで、笑顔だった」


 なぜだろう。その言葉を聞いて、ましろの目に涙が浮かんだ。知らないはずの誰かのために、涙が流れる。


「私……」


 言いかけた時、トトが飛び込んできた。


「おはよう! お、小豆煮てるのかい?」


 場の空気が一変した。ユリウスは何事もなかったように本を開き、ましろは涙を拭って笑顔を作る。


「お汁粉にしようと思って」


「いいねえ! 餅も入れてくれる?」


 こうして、いつもの朝が始まった。


 でも、ましろの心の奥には、小さな種が蒔かれていた。いつか芽吹くかもしれない、記憶の種が。


 朝食の席で、イザナがましろを見つめる時間が、いつもより長かった。その眼差しには、言葉にできない想いが込められているようで。


 記憶花は、中庭で静かに咲き続けている。


 百年の時を超えて、何かを伝えようとするかのように。

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