第8話 昔の"誰か"と重なる存在
午後の柔らかな光が、神殿の回廊に差し込んでいた。ましろは書庫で見つけた古い料理書を抱えて、中庭のベンチに座っていた。羊皮紙のページをめくる度に、かすかに香木の匂いが漂う。
料理書には、見慣れない文字で様々な献立が記されていた。けれど不思議なことに、ましろにはその意味が何となく理解できた。まるで、深い記憶の底で、この文字を知っているかのように。
豊穣の女神セリナが、ゆったりとした足取りで近づいてきた。豊かな金髪が、午後の光を受けてきらめく。ふくよかな体を包む薄絹の衣が、そよ風に揺れていた。
「まあ、熱心ね」
セリナの声は、蜂蜜のように甘く柔らかい。隣に座ると、花のような香りがふわりと広がった。薔薇とジャスミンを混ぜたような、優雅で温かい香り。
「昔の献立を調べているんです」
ましろが答えると、セリナは料理書を覗き込んだ。その瞳が、一瞬揺れた。
「この字……」
セリナの指が、ページの上を滑る。そこには流れるような文字で、煮物の作り方が記されていた。里芋、人参、蓮根、そして椎茸。素朴な食材を使った、家庭的な料理。
「美しい字ですよね」
ましろが言うと、セリナは遠い目をした。まるで、時の彼方を見つめているような眼差し。その瞳の奥に、深い懐かしさと寂しさが入り混じっていた。
「ええ、とても美しい。昔、同じような字を書く人を知っていたわ」
風が吹き、中庭の木々がさわめいた。葉擦れの音が、静かな午後に響く。花壇では、名も知らぬ小さな花が揺れていた。
セリナは、ましろの横顔をじっと見つめた。料理書に向かう真剣な眼差し、ページをめくる手の動き、かすかに傾げられた首の角度。その全てが、何かを思い出させるようだった。
「あなたの手つきが」
セリナが呟いた。声には、抑えきれない感情が滲んでいる。
「昔世話になった人間に、そっくりで」
ましろは顔を上げた。セリナの瞳には、今にも涙がこぼれそうなほどの感情が溢れていた。
「人間……ですか?」
「ええ。もう百年以上も前の話よ」
セリナは中庭の花壇に目を向けた。色とりどりの花が、午後の光の中で揺れている。その中に、小さな白い花があった。清楚で、控えめで、けれど凛とした美しさを持つ花。
「この神殿に、一人の人間の女性が来たの。あなたと同じように、まかない係として」
ましろの手が、ページをめくる動きを止めた。
百年前のまかない係。献立帳の古い記述、不思議な既視感、そして今のセリナの言葉。全てが一本の糸で繋がっているような気がした。
「その人は、どんな方だったんですか?」
ましろは慎重に尋ねた。心臓が、少し早く鼓動している。
セリナは少し考えてから、ゆっくりと話し始めた。
「優しい人だったわ。料理を通じて、私たち神々の心を癒してくれた」
セリナの声が、どこか震えている。
「最初は皆、人間のまかない係なんて、と馬鹿にしていたの。神々の食事を、たかが人間が作れるわけがないって」
セリナは小さく笑った。それは自嘲的な、苦い笑みだった。
「でも、彼女の作る料理を食べるうちに……」
言葉が途切れた。
セリナは深呼吸をして、続けた。
「いつの間にか、彼女なしでは考えられなくなっていた。彼女の作る煮物を食べながら、私たちは初めて"家族"というものを知ったのかもしれない」
風が強くなり、ましろの髪が揺れた。料理書のページが、ぱらぱらとめくれる。
「彼女は、どんな料理を作っていたんですか?」
ましろが尋ねると、セリナの表情が和らいだ。
「素朴なものばかりよ。煮物、汁物、漬物。でも、どれも心がこもっていて、食べると不思議と安心したの」
セリナは、遠くを見つめながら続けた。
「特に煮物が絶品だった。里芋の煮っころがし、筑前煮、ひじきの煮物。どれも優しい味で、食べていると涙が出そうになったわ」
ましろは、料理書のページを見下ろした。そこには、セリナが今挙げた料理のレシピが、丁寧に記されていた。
「彼女の名前は?」
ましろが尋ねると、セリナは首を振った。
「不思議なことに、思い出せないの。顔も、声も、手つきも覚えているのに、名前だけが霧の中」
それは、まるで何かの魔法のようだった。あるいは、時の流れが作り出した、自然な忘却なのか。
セリナは、ましろの手を見つめた。
「でも、あなたを見ていると、彼女を思い出すの。包丁を持つ手つき、食材を見る目、味見をする時の表情。全てが重なって見える」
ましろは自分の手を見下ろした。別段特別なところはない、ごく普通の手。けれど、この手で作る料理が、神々の心に触れているのだとしたら。
「その方は、なぜ神殿に来たんですか?」
セリナは少し考えてから、答えた。
「詳しくは知らないの。ただ、イザナ様が連れてきたと聞いているわ」
イザナが。
ましろの心に、小さな波紋が広がった。
「最初は、皆反対したのよ。神々の聖域に人間を入れるなんて、って。でも、イザナ様が強く推したの。『この者には、特別な力がある』って」
特別な力。それは、料理の腕前のことだったのか、それとも別の何かだったのか。
「その方は、どうなったんですか?」
セリナの表情が、暗く沈んだ。
「ある日、突然いなくなったの。朝起きたら、もう神殿にはいなかった」
中庭の影が、少しずつ長くなっていく。夕暮れが近づいている証だった。
「探したわ。皆で必死に探した。でも、どこにもいなかった。まるで最初から存在しなかったかのように」
セリナの瞳に、涙が浮かんだ。豊穣の女神が、百年前の別れを今も悲しんでいる。
「最後に作ってくれた料理が、煮物だったのを覚えているわ。いつもより少し薄味で、でもとても優しい味がした」
涙が頬を伝い、セリナの膝に落ちた。その雫が落ちた場所から、小さな花が咲いた。女神の涙には、命を生み出す力があるのだ。白く、可憐で、どこか寂しげな花。
ましろは黙って、セリナの隣に座っていた。
慰めの言葉を探すより、ただそこにいることの方が大切な時がある。
しばらくして、セリナは涙を拭った。
「ごめんなさい。昔のことを思い出してしまって」
「いいえ」
ましろは首を振った。
「大切な思い出なんですね」
セリナは小さく頷いた。
「ええ。彼女との日々は、私にとって宝物よ」
セリナは、ましろの顔をじっと見つめた。
「あなたを見ていると、不思議な気持ちになるの。まるで、彼女が帰ってきたような」
その言葉に、ましろは複雑な感情を覚えた。自分は自分であって、百年前の誰かではない。けれど、なぜか心の奥で、何かが共鳴しているような感覚があった。
ふと、セリナはましろの肩に手を置いた。温かく、柔らかな手。母親のような優しさに満ちた手。
「お願いがあるの」
セリナの声は、真剣だった。
「今度、煮物を作ってくれない? 里芋と人参と、それから蓮根も。椎茸も入れて」
セリナが挙げる食材は、どれも素朴なものばかりだった。神々の食事とは思えないほど、簡素で家庭的な料理。
「もちろんです」
ましろが答えると、セリナは安堵の笑みを浮かべた。
「ありがとう。きっと、また"あの味"に会えるような気がするの」
セリナは立ち上がり、神殿へと歩いていった。その後ろ姿は、どこか寂しげで、けれど希望を抱いているようにも見えた。
一人残されたましろは、料理書を閉じた。
百年前のまかない係。
その人物は、なぜ突然姿を消したのか。なぜ名前だけが思い出せないのか。そして、なぜ自分と重なって見えるのか。
謎は深まるばかりだった。
けれど、今は目の前のことに集中しよう。セリナのために、心を込めて煮物を作ること。それが、ましろにできる最善のことだ。
夕方の鐘が鳴り始めた。
ましろは立ち上がり、台所へと向かった。煮物の下ごしらえを始めなければ。
台所に入ると、トトが待っていた。
「セリナ様と話していたね」
精霊猫の瞳が、意味ありげに光る。
「百年前の話を聞いたでしょう?」
ましろは頷きながら、里芋の皮を剥き始めた。包丁が里芋に入る感触、土の匂い、でんぷん質の白い断面。
「トトは、その人を知っているの?」
「直接は知らない。でも、話は聞いたことがある」
トトは調理台の上を歩きながら、続けた。
「彼女が作る料理は、ただの食事じゃなかった。魂に直接語りかけるような、不思議な力があったって」
人参を切る音が、台所に響く。トントンという規則的な音が、静かな夕暮れに心地よく響いた。
「まるで……」
トトは言いかけて、口を閉じた。
「まるで?」
「いや、なんでもない」
トトは話題を変えるように、窓の外を見た。
「今夜は月が綺麗だよ。煮物を食べながら、月見なんてどう?」
ましろは微笑んだ。
「いいですね。皆さんを誘ってみましょう」
鍋に火を入れ、出汁を取り始める。昆布と鰹節の香りが、台所に広がっていく。
料理を作りながら、ましろは考えた。
百年前のまかない係と自分。
時を超えて、同じ場所で、同じように神々のために料理を作っている。それは偶然なのか、それとも……。
出汁の香りが、優しく台所を満たしていく。
里芋を入れ、人参を加え、蓮根も投入する。最後に椎茸を加えて、ゆっくりと煮込んでいく。
調味料は、醤油とみりん、そして少しの砂糖。決して派手ではない、素朴な味付け。けれど、それが一番心に染みる味になることを、ましろは知っていた。
煮物が煮えるまでの間、ましろは他の料理の準備をした。
月見に合わせて、月見団子も作ろう。白玉粉を水で練り、丸めて茹でる。きな粉と黒蜜を添えれば、簡単だけれど美味しいデザートになる。
リタが台所に入ってきた。
「いい匂い! 今夜は煮物ですか?」
「ええ。月見をしながら食べようと思って」
ましろの提案に、リタの顔が輝いた。
「素敵! 私、テーブルの準備をしますね」
少女は嬉しそうに食堂へと駆けていった。
やがて、煮物が完成した。
蓋を開けると、湯気と共に優しい香りが立ち上る。里芋は柔らかく煮え、人参は鮮やかな色を保ち、蓮根はシャキシャキとした食感を残している。椎茸からは、深い旨味が染み出していた。
食堂に運ぶと、すでに神々が集まっていた。
月の光が差し込む食堂で、皆が静かに席についている。イザナ、カグツチ、セリナ、ユリウス。そして、珍しく神殿の番人ジルも同席していた。
煮物を配ると、セリナが最初に箸をつけた。
一口食べた瞬間、その表情が変わった。
驚きと、懐かしさと、そして深い感動が、次々と顔に浮かんでは消えていく。
「この味……」
セリナの声が震えた。
「まさに、あの時の……」
涙が、また頬を伝った。けれど今度は、悲しみの涙ではなかった。懐かしい人との再会を喜ぶような、温かい涙だった。
他の神々も、静かに煮物を味わっていた。
それぞれが、それぞれの思いを胸に、ゆっくりと噛みしめている。
月の光が、食卓を優しく照らしていた。
今夜の煮物は、きっと特別な味になったはずだ。百年の時を超えて、誰かの想いと重なるような、そんな味に。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます