まかない神殿 ~異世界の台所から始まる、神々と心を癒すひとり暮らし~

ソコニ

第1話 目覚めの炊き込みご飯と、無言の神



 焦げた醤油の匂いが、鼻腔を突き抜けた。


 春野ましろは、知らない天井を見上げていた。木目の梁。煤けた板。どこかで見たような、でも確実に自分の知らない場所。体を起こそうとして、気づく。


 自分は立っていた。


 古い台所の真ん中で、木杓子を握りしめて。


 目の前の羽釜から、炊き込みご飯の湯気が立ち昇っている。醤油と出汁の香り。きのこの土っぽい匂い。人参の甘み。そして、かすかに焦げ始めた釜底の警告。


 慌てて火を弱める。その動きは反射的で、二十八年間で染み付いた習慣そのものだった。


 でも、ここは病院の厨房じゃない。


 ステンレスの調理台も、デジタルタイマーも、蛍光灯の白い光もない。代わりにあるのは、使い込まれた木の調理台、薪が爆ぜるかまど、天窓から差し込む夕暮れの光。


 「どうして……」


 声に出してみて、自分の声が普段通りなことに安堵する。でも同時に、強烈な違和感が全身を駆け巡った。


 最後の記憶は、配膳車を押していた自分。また今日も「味が薄い」と言われた。栄養価は完璧なのに。塩分制限も守っているのに。それでも患者たちは首を横に振る。


 疲れていた。心が、擦り切れていた。


 そして——鈴の音が、聞こえた。


 羽釜の蓋が、カタカタと踊っている。炊きあがりの合図。ましろは震える手で火を落とし、蒸らしに入る。不思議なことに、初めて使うはずの道具なのに、手が勝手に動く。


 まるで、ずっと昔から、ここで料理をしていたかのように。


 蒸らしの間、台所を見回す。


 古いが、丁寧に手入れされている。包丁は研ぎ澄まされ、まな板には無数の傷。鍋は大小様々で、どれも黒光りしている。そして壁には、見慣れない文字で何かが刻まれていた。


 文字なのか、模様なのか。じっと見つめていると、目眩がする。


 蓋を取る。


 白い湯気が天井に向かって立ち昇り、オレンジ色の光を乱反射させる。その向こうに、信じられないものが見えた。


 星だ。


 天窓の向こうに、真昼のような明るさで星が瞬いている。それも一つや二つじゃない。無数の星が、ありえない輝きで空を埋め尽くしている。


 ましろは息を呑んだ。


 ここは、地球じゃない。


 その認識が、今更ながら全身を貫く。膝が震えた。でも、不思議なことに、恐怖よりも先に別の感情が湧き上がってきた。


 解放感。


 もう、誰にも文句を言われない。時間に追われることもない。ただ、この静かな場所で——


 足音が、響いた。


 ゆっくりと、でも確実にこちらに向かってくる。ましろは木杓子を握りしめた。武器になるはずもないが、他に何もない。


 台所の入り口に、影が落ちた。


 逆光で顔は見えない。ただ、シルエットだけが浮かび上がる。長身。すらりとした体躯。そして——


 銀色の髪が、ありえない光を放っていた。


 月光を編み込んだような、生き物の髪とは思えない輝き。その人物が一歩、また一歩と近づいてくる。足音が妙だ。地面を踏んでいるのに、音が遅れて聞こえる。


 姿が露わになる。


 ましろは、言葉を失った。


 美しい、なんて陳腐な表現では足りない。その存在は、人の形をしているだけで、中身は全く別の何かだった。性別すら曖昧で、年齢も不詳。白磁のような肌は内側から光を放ち、瞳は——


 深い青灰色の瞳は、底なしの井戸のようだった。


 覗き込めば、魂ごと吸い込まれそうな深淵。その中に、星が瞬いている。本物の星が、瞳の中で輝いている。


 ましろは動けなかった。


 その存在は、無言でましろを見つめた。値踏みするでもなく、威圧するでもなく。ただ、静かに観察している。


 やがて、視線が手元の椀に落ちる。


 いつの間に用意したのか、ましろは炊き込みご飯をよそった椀を持っていた。湯気が二人の間で揺れている。


 沈黙。


 薪が爆ぜる音だけが、時間の流れを告げる。


 ふと、その存在が手を伸ばした。


 人間の手の形をしているが、やはり違う。指が長すぎる。関節が多い。そして、触れた瞬間に椀が凍りつくかと思った。


 でも、椀は凍らなかった。


 その存在は、驚くほど普通に椀を受け取り、箸を手に取った。所作は優雅だが、どこかぎこちない。まるで、思い出しながら動いているような。


 一口、口に運ぶ。


 咀嚼する音が、静寂を破った。


 次の瞬間、ましろは息を呑んだ。


 その存在の瞳に、感情が宿った。


 機械的だった青灰色の瞳に、突然、人間らしい光が灯る。驚き、困惑、そして——


 懐かしさ。


 深い、深い懐かしさが、その瞳から溢れ出した。


 もう一口、また一口。食べ進めるごとに、その存在は人間に近づいていく。頬に血の気が差し、呼吸が深くなり、瞳の星が優しく瞬く。


 ましろは、その変化に魅入られていた。


 料理が、この異質な存在を変えている。人間の食べ物が、人ならざるものに何かを思い出させている。


 椀が空になった。


 その存在——もう、彼と呼んでもいいだろう——は、空の椀を両手で包み込んだ。大切な宝物のように、慈しむように。


 そして、口を開いた。


 「……ずっと」


 声は、風鈴のようだった。


 「ずっと、待っていた」


 その一言を残して、彼は踵を返した。


 「待って」


 ましろは思わず声を上げた。


 「あなたは誰? ここはどこ? 私はどうして——」


 彼は振り返らなかった。ただ、去り際に一言。


 「明日も、頼む」


 それきり、姿は闇に溶けて消えた。


 ましろは呆然と立ち尽くした。


 台所には、炊き込みご飯の残り香と、薪の爆ぜる音だけが残されている。窓の外では、相変わらずありえない星空が広がっていた。


 震える手で、自分の分の茶碗に炊き込みご飯をよそう。


 一口食べて、涙が出た。


 美味しい。


 素直に、美味しいと思えた。病院では何を作っても「薄い」「まずい」と言われ続けた自分の料理が、ここでは違う意味を持っている。


 台所の隅に、古い献立帳を見つけた。


 革表紙を開くと、最初のページに文字が躍っている。


 『神々のための献立』


 神々。


 あの銀髪の存在を思い出す。人ならざる美貌。瞳の中の星。そして、炊き込みご飯を食べた時の、あまりにも人間的な表情。


 ページをめくる。


 「始源の神(イザナ)——好物不明。ただし、懐かしい味を求める」


 イザナ。それが彼の名前か。


 「火の神(カグツチ)——卵を激しく拒絶」

 「豊穣の女神(セリナ)——煮物に異常な執着」

 「時間の神(ユリウス)——発酵食品に哲学を見出す」


 まるで患者のカルテだ。好き嫌い、アレルギー、食事制限。でも、相手は神様。


 最後のページに、走り書きがあった。


 『料理は祈りの一形態。味は魂に直接届く。どうか、彼らを癒して』


 前任者のメッセージか。


 ましろは献立帳を抱きしめた。


 わからないことだらけだ。でも、一つだけ確かなことがある。


 明日も、料理を作ろう。


 あの神様——イザナが、また来てくれるなら。あの瞳に宿った懐かしさの正体を、いつか知ることができるなら。


 片付けを終えて、奥の小部屋で横になる。


 不思議な一日だった。でも、久しぶりに、生きている実感があった。


 誰かが自分の料理を待っている。


 それだけで、十分だった。


 まどろみの中で、また鈴の音が聞こえた。今度ははっきりと。それは子守唄のように優しく、ましろを深い眠りへと誘っていった。


 静寂の神殿に、初めての夜が訪れる。


 台所には、新しいまかない係の温もりが、そっと残されていた。

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