第41話 秘密の部屋
決行の夜。
月明りを覆い隠すような、分厚い雲が空を覆っている。
私たちは闇に紛れて、ローゼンベルク公爵邸の広大な庭園の、その生垣の影に息を潜めていた。
私の耳には、ヴェロニカから渡された小さな通信用の魔道具が嵌められている。彼女の、ひそひそとした声が響いた。
『――聞こえますか、リゼロッテ様、レノーア。これより、邸内の魔力探知を開始します。警備結界に異常な動きがあれば、即座にお知らせしますので、慎重に』
「ええ、お願いするわね、ヴェロニカ」
私は小声で応じると、隣のレノーアと、こくりと頷き合った。
久しぶりに見る我が家だというのに、まるで、巨大な竜が横たわって眠っているような印象を受けた。
知っているはずの庭の風景が、今は全く知らない場所のように、よそよそしい。
ああ、そうか。私はいま、自分の家に「侵入者」として忍び込もうとしているのだ。
子供の頃に兄たちと、この庭でかくれんぼをした。フェリクスお兄様はいつもこの大きな樫の木の裏に隠れていたっけ。温かい思い出が、胸を締め付ける。
その感傷を断ち切るように、レノーアが私の腕をそっと引いた。
「お嬢様、こちらへ。使用人の巡回ルートから外れています」
彼女は淀みない動きで私を導いていく。音もなく、影から影へと。完璧な隠密行動。やはりレノーアは、ただものではない。
おかげで何の障害もなく、裏口から邸内への侵入に成功した。
ひんやりとした大理石の床。磨き上げられた調度品。壁にかかる見慣れた絵画。
いずれも懐かしく、思い出が脳裏に浮かぶたびに私の罪悪感を刺激した。
二階へと続く、大階段の先。歴代当主の肖像画が、ずらりと並ぶ長い廊下。
薄曇りから覗く月明かりが高窓から差し込み、並んだ肖像画の瞳を不気味に光らせている。まるで、私たち侵入者を、全員で監視しているかのようだった。
「……ここね」
廊下の一番奥に到達する。
ひときわ巨大な額縁に収められた、初代当主アルブレヒト・フォン・ローゼンベルクの肖像画。
コルネリアの言葉を信じるなら、ここに入口がある。
しかし、いくら目を凝らしても、仕掛けらしきものはどこにも見当たらない。壁も、床も、完璧に滑らかで、継ぎ目一つ見当たらない。
『魔力探知にも異常はありません。巧妙に隠蔽されていますね』
焦りを滲ませた報告がヴェロニカから上がってくる。
どうすれば、この沈黙した肖像画は、その口を開いてくれるのか。
私の脳裏に、コルネリアの、あの挑発的な言葉が蘇る。
『アラリック様は、まるで何かを報告し、懺悔するように……』
アリスター先生も言っていたじゃないか。
物理的に探すのではない。心理的に探すのだと。
私は意を決して、肖像画の前にひとり進み出た。
そして、兄が毎晩ここでやっているという「習慣」を真似てみることにした。
背筋を伸ばし、ローゼンベルク家の人間だけが知る古式に則った敬礼と共に、小声で呟いてみる。
「偉大なる初代当主アルブレヒト様に、ご報告を。……我が家の薔薇は、今日も、変わりなく」
小さなころ、遊びの中で覚えたものだった。母も父も、この言葉を好んでいた。
それがトリガーだった。
私の声に、私の魔力に、呼応するように。
音もなく、巨大な肖像画そのものが、静かに壁の奥へとスライドしていく。
現れたのは、闇へと続く階段だった。
息を呑み、私たちは、その階段を、一歩、一歩、慎重に下りていく。
その先は、小さな書斎だった。
何の飾り気もない。ただ壁一面の書架に、膨大な量の書物や研究資料が、これ以上ないほど整然と並べられている。アラリックお兄様の厳格な性格が、そのまま部屋の形になったかのようだった。
部屋の中央に置かれた、質素な木製の机。
その上には、まるで「いつ、誰に読まれてもいい」とでも言うように、一冊の古びた日誌が無造作に置かれていた。
心臓が早鐘のように鳴る。
震える指先で、その日誌を手に取った。
ページを、めくる。
綴られていたのは、10年前のあの日から続く、兄の苦悩の告白だった。
『――私の未熟さが、全てを狂わせた。あの子の、あまりにも強大な力を正しく導くことができなかった。封印の儀式は、失敗した』
『私の力が、あの子の魔力と衝突し、その魂そのものを書き換えてしまった。癒えることのない傷を、私はこの手で刻んでしまったのだ』
『リゼロッテ。許してくれとは言わない。この罪は、私が生涯背負っていく』
一文字、一文字が、私の胸にナイフのように突き刺さる。
違う。お兄様は悪くなかった。私が弱かったから。
涙で視界が滲む。
そして、私は運命のページを、めくってしまった。
日誌の最後に記されていた、追伸。
――儀式の余波は想定をはるかに超えた。無関係の不幸な被害者を、一人出てしまった。庭師の娘で、あの日から下女として上がるはずだった少女、エレア。彼女の魂は、いまも私の罪の中に囚われている。
「エレア……?」
聞いたことのない名前。私は無意識のうちに、声に出していた。
その瞬間だった。
隣で影のように立っていたはずのレノーアが。
はっ、と、息を呑む音が、静寂を切り裂いた。
見ると、彼女は時が止まったかのように凍り付いていた。
血の気が完全にその顔から失せている。
いつもは冷静な、あの美しい真紅の瞳が、信じられないほど大きく見開かれていた。
「レノーア……?」
そのただならぬ様子に、私はただ彼女の名前を呼ぶことしかできなかった。
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