第八話:『賢者のプライドと、道化の知恵』

職人の町を後にして、二人はさらに南へと歩を進めていた。


旅は、完全に日常になっていた。


朝、鳥の声で目覚め、夜、星空の下で眠る。硬いパンをかじり、ぬるい水を飲む。その一つひとつが、もはや苦ではなく、生きていることを実感する、確かな手触りとなっていた。


特に、リーナの変化は著しい。


彼女はもう、ただレイの後ろをついて歩く、か弱い少女ではなかった。


「レイさん、あそこの木、見てください。葉っぱの半分が、黄色く変色しています」


「ん? ああ、そうだな。病気かね」


「私がいた村では、畑の作物が、あんな風に黄色くなることがありました。土の中の、何かが足りなくなっている印だって、父が言っていました」


彼女は、物事をただ眺めるのではなく、注意深く観察し、自分の知識や経験と結びつけて、考察するようになっていた。


レイが世界を見るレンズを、彼女は自分なりに使いこなし始めている。



「へぇー、物知りだな、リーナ先生」


「先生と呼ぶのはやめてください。でも……」


リーナは、少し真剣な顔で続けた。


「この旅で出会った人たちは皆、自分の心の中の、何かが足りないことに気づいていなかったり、逆に、要らないものを溜め込みすぎていたり……。なんだか、人の心も、畑の土と似ているなって、思ったんです」


「……ほう」


レイは、リーナの顔をじっと見た。そして、満足そうに、太陽のように笑った。


「いいねぇ、リーナ! その通りだ! 人間の心なんざ、ただの家庭菜園みたいなもんさ。雑草(余計な悩み)を抜いて、石ころ(頑固な思い込み)を取り除いて、良い肥料(新しい視点)をやって、よく耕してやれば、ちゃんと美味い作物が実る。みんな、その手入れの仕方を、忘れてるだけなんだよな」


その「手入れのされていない畑」の、最も厄介な実例に、二人が出くわすのは、その二日後のことだった。


たどり着いたのは、山間の盆地に拓かれた、一見すると豊かで、平和な村だった。


家々は整然と並び、道は掃き清められ、人々は勤勉に働いている。


村全体が、まるで一人の人間の手足のように、規律正しく動いている印象だ。


しかし、その整然とした風景の中で、畑だけが、不気味な病に侵されていた。


主要な作物である麦の葉が、リーナが道中で見たように、黄色く変色し、元気をなくしている。


収穫期を前にして、明らかに生育が止まっていた。


村のあちこちで、農夫たちが、その黄色い畑を前に、深刻な顔で話し込んでいるのが見えた。


「これは……『黄枯れ病』だ。うちのじいさんも、昔、これでひどい目に遭ったと言っていた」


「村長様は、山神様への祈りが足りないのだ、と仰せだが……」


「祈りだけで、腹は膨れんぞ……」


二人が宿屋で事情を聞くと、この村が、ボルリスという名の、カリスマ的な村長によって、長年治められていることが分かった。


ボルリス村長は、公平で、厳格で、誰よりも村を愛している、立派な指導者だという。


彼の指導の下、村は安定し、発展してきた。


しかし、その成功体験が、彼を頑固にしてしまった。


彼は、自分のやり方、そして、村に代々伝わる伝統的な農法こそが、絶対的に正しいと信じきっているのだ。


今回の「黄枯れ病」に対しても、彼は、原因を「天候不順による、一時的な山の力の衰え」と断定。解決策として、村人たちに、山神を祀る社への、より一層の祈りを捧げることを命じている。


若い農夫たちの中には、土そのものに問題があるのではないか、と考える者もいるらしい。


隣村で成功した、新しい農法――例えば、別の作物を植えて土を休ませる、といった方法を試すべきだと進言した者もいた。


しかし、ボルリス村長は、それを「先祖代々の知恵への侮辱だ」と一喝し、全く取り合わなかったという。


「典型的な、ワンマン社長の成功と挫折パターンだな」


話を聞き終えたレイは、ため息をついた。


「成功体験が、一番厄介な岩になる。自分の畑を、一番固く踏み固めちまうんだ」


「あの、レイさん」


リーナが、おずおずと口を開いた。


「私が前に話したこと、覚えていますか? 黄色い葉は、土の中の何かが足りない印……。私の村では、そういう時、次の年に豆を植えました。豆は、土に力を戻してくれる、と。もしかしたら、この村でも……」


「うん、きっとそうだろうな」


レイは、リーナの言葉を肯定した。


「でも、問題は、その『正解』を、どうやってあの頑固オヤジに認めさせるか、だ。リーナ、君がこの村の問題を解決するとしたら、どうする?」


レイに、試すような目で見つめられる。


リーナは、ゴクリと唾を飲んだ。これは、試験だ。


彼女は、必死に頭を働かせた。


「まず……村長に、直接会って、話をします。彼が囚われているのは、『常に正しい指導者である自分』という、過去の姿です。そのプライドが、新しい知識を受け入れる邪魔をしている、と。そして、私の村での実例を挙げて、新しい農法がいかに合理的で、効果的かを、証拠を揃えて、論理的に説明します」


それは、リーナが今、考えうる、最も誠実で、最も正しいと思える方法だった。


しかし、レイは、ブブー、と大きなブザーの音を口で真似た。


「はい、不正解! そんなことしたら、火に油を注ぐだけだぜ」


「え……!? でも、正しいことを、正しく伝えるのが……」


「プライドの高い人間にとって、『お前は間違っている』っていう、論理的な正論ほど、腹の立つものはないんだよ。相手を論破して、打ち負かしても、遺恨が残るだけ。俺たちの目的は、言い争いに勝つことじゃない。村の畑を、救うことだろ? そのためには、時には、正面突破より、搦め手から攻める方が、ずっと賢いんだ」


レイは、悪戯っ子のように、にやりと笑った。


「あの石頭オヤジを、どうやって動かすか……。ちょっと、面白い芝居を、一発打ってみるか」


翌日、レイは、村長に不満を持つ若い農夫たちを数人集めた。


「いいかい、君たち。村長を説得するのは、もう諦めろ。代わりに、俺の言う通りに動いてくれ」


レイの計画は、あまりにも突飛で、不謹慎でさえあった。農夫たちは、最初は半信半疑だったが、レイの妙な自信と、リーナの真剣な眼差しに、やがて頷いた。


その日の昼過ぎ。


ボルリス村長が、村の社で、厳かに祈りを捧げていると、レイが、神妙な顔つきで、その前に進み出た。


「……村長様。旅の若輩者が、神聖な祈りの場を汚すことを、お許しください」


「……何者だ、お前は」


ボルリスは、眉間に深いシワを刻み、レイを睨みつけた。


「私は、レイと申します。各地を巡り、古の伝承や、忘れられた土地の記憶を集めている者です。この村の、黄色く枯れた畑を見て、私の祖父から聞かされた、ある『大いなる災いの兆し』と、あまりに酷似していることに、心を痛めております」


「災いの、兆しだと?」


「はい。それは、大地が、その力を失う前触れ……。『沈黙の呪い』と呼ばれるものです。一度かかれば、その土地は、数十年、草木一本育たぬ、死の大地と化す、と……」


レイの声は、わざとらしく、しかし、妙な迫真性に満ちていた。ボ


ルリスの顔色が変わる。



「しかし」


とレイは続けた。


「その伝承には、呪いを解く、唯一の方法も、記されておりました」


「……なんだと?」


「それは、山の賢者が授ける、『三つの恵み』を、大地に捧げること。賢者は、満月の夜にのみ、山頂の『賢者の岩』に姿を現す、と……」


ボルリスは、唾を飲んだ。


彼の信仰心と、村を想う心が、レイの言葉に、激しく揺さぶられていた。


「……その話、まことか」


「私が嘘をついて、何の得がありましょう。しかし、信じるも信じないも、村長様のお心次第。私は、ただ、古の警告をお伝えするのみです」


レイは、深々と頭を下げると、その場を立ち去った。


その夜。


ボルリスは、悩んだ末、村の長老たち数名だけを連れ、満月が照らす山道へと、足を踏み入れた。


山頂には、古い言い伝えにある「賢者の岩」が、月光を浴びて、荘厳に佇んでいる。


ボルリスたちが、息を切らしながら岩の前にたどり着き、祈りを捧げていると……。


どこからともなく、霧が立ち込めてきた。


若い農夫たちが、麓で湿った藁を焚いた、人工の霧であるとは、知る由もない。


霧の中から、厳かな、老人のような声が響いた。


「……よく来たな、村の長よ」


その声は、岩の裏に隠れたレイが、壺に向かって喋ることで、反響させて作り出したものだ。


「賢者様! おお、賢者様! どうか、この村をお救いください!」


ボルMリスは、地面にひれ伏した。


「……聞け、村の長よ。汝の土地は、驕れる心により、力を失いつつある。しかし、汝の祈りは、天に通じた。今こそ、古の叡智を授けん」


声は、続けた。


「一つ、大地に『力の種』を蒔くべし。それは、天に向かって蔓を伸ばし、土に力を取り戻す、聖なる豆なり」


(豆……! あの娘が言っていた通りだ!)


リーナの言葉が、ボルリスの頭をよぎる。


「二つ、大地に『清浄の葉』を鋤き込むべし。それは、枯れてもなお、土を豊かにする、緑の恵みなり」


(収穫の終わった作物を、そのまま土に……? 若い奴らが言っていた、新しいやり方……)


「三つ、大地に『慈しみの水』を与えるべし。一つの畑に固執せず、畑を慈しみ、時には休ませる、大いなる循環の理を知るべし」


(畑を……休ませる……)


授けられた三つの「神託」は、ことごとく、若い農夫たちが進言し、ボルリス自身が「伝統に反する」と、一蹴してきた内容そのものだった。


しかし、それが「山の賢者」の口から語られた今、その言葉は、絶対的な神聖さと、抗いがたい重みを持っていた。


「……ありがたき、お言葉……! このボルリス、賢者様の叡智に従い、必ずや、村を救ってみせまする!」


ボルリスは、涙ながらに、そう誓った。


翌日、村の広場で、ボルリス村長は、高らかに宣言した。


「皆、聞け! 昨夜、私は、山の賢者様より、大いなる神託を授かった! これより、我々は、賢者様の教えに従い、古の、そして、真の伝統に立ち返る!」


彼は、レイが語った「三つの恵み」を、あたかも自分が授かったかのように、威厳たっぷりに語り、村人たちに実行を命じた。


若い農夫たちは、顔を見合わせ、笑いをこらえている。


長老たちは、賢者の奇跡に、感涙にむせんでいる。


リーナは、その光景を、呆然と見ていた。


「……いいんですか、あれで」


村を去る道すがら、リーナが尋ねた。


「村長は、自分が間違っていたなんて、少しも思っていません。それどころか、自分の信仰心のおかげで、村が救われたと、信じきっています。まるで、レイさんの手柄を、横取りしたみたいじゃありませんか」


「いいんだよ、それで」


レイは、あっけらかんと答えた。


「俺の目的は、俺が『正しい』と証明することじゃない。村の畑が、元気になることだ。そのためなら、俺は預言者にも、道化にもなる。頑固な村長のプライドなんて、可愛いもんだ。彼が、そのプライドを保ったまま、正しい行動を取ってくれるなら、万々歳じゃないか」


レイは、リーナの方を向いて、ニッと笑った。


「物事の『正しさ』なんて、どこから見るかで、いくらでも変わる。でも、『腹が減った人間がいる』っていう事実は、動かせない。俺は、難しい理屈より、目の前の、腹を減らした人間の飯の方が、よっぽど大事だと思ってる」


その言葉は、どんな高尚な哲学よりも、リーナの心に、強く、温かく響いた。



この人は、本当に、自由な人だ。


正しさや、プライドや、評価といった、目に見えない檻から、完全に自由なのだ。


だから、こんなにも強く、そして、優しいのだ。


「さて、と!」


レイが、パンと手を打った。


「預言者稼業も、なかなか面白かったな! 次は、何になろうかな? 吟遊詩人か? それとも、インチキ占い師か? いやー、旅は、やめられまへんな!」


その、どこまでも能天気な声を聞きながら、リーナは、心の底から、楽しそうに笑った。


この人の隣を歩く限り、自分の心の中の畑もまた、決して枯れることはないだろう。


そんな、確かな予感が、彼女の全身を満たしていた。

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