米断 日本が危ない

羊太夫

第1話


コメが、突然消えた。

日本人の主食であるコメが、である。


最初は、大阪郊外の大型スーパーの一角での出来事だった。普段は整然と並ぶ米袋の棚が、ある朝、空っぽになっていた。


「え? もう売り切れたんですか?」


買い物カートを押している主婦が、棚の前で驚いたように立ち尽くす。同じような声がいくつも上がる。別に大災害があったわけでも、パンデミックがあったわけでもない。それなのに、米がすっかり消えている。


この異変は、じわじわと日本全国に拡大されていった。


東京の高級スーパーから、コンビニから、山間部の小さな食料品店まで、どこに行っても、同じであった。「お一人様1袋まで」「次回入荷未定」といった紙が、白々しく貼り出されていた。SNSには「ついにコメも買い占めか?」「誰が買い占めている?」という投稿が次々と出され、やがて大手マスメディアが取り上げた。


五日後には、全国の量販店、スーパー、食料品店の棚から、ほとんどすべての米が姿を消した。


わずかに時折入荷される米も価格も狂ったように跳ね上がる。五キロで3,000円くらいだった標準的なコシヒカリが、5,800円に。それでも欲しがる客が押し寄せ、店舗では小競り合いが頻発した。


米を管轄している霞が関の農林水産省では、緊急会議が深夜まで続いていた。


「このままでは、日本の各地で『米騒動』のような暴動が起きかねません」


農水省の中堅官僚、柏木朱里が緊張した声で言う。

瀬川俊明、農林水産大臣は、硬い表情で柏木の話を聞いた。

年齢は政治家として円熟味を増していく50歳。穏健派の保守政治家として知られ、農政全般に強い発言力を持っている。だが、昨年の内閣改造で農水大臣に就任して以来、かねてからの持論であった農政改革に基づき、古くからの利権構造を改めようとし、省内でも政府内でも浮いた存在になりつつあった。


「備蓄米を出そう。すぐにだ」

静かに瀬川が言った。


「備蓄米を? この段階で、ですか?」

「早く国民に安心感を与えなければならない。政治家としての責任だ」

「しかし、お言葉ですが、大臣……。今年の備蓄米の貯蔵量は平年より少ないです。出してしまえば、今後の災害対応や安全保障に支障が――」


「かまわん。それでも、出す」


瀬川は妥協しなかった。いったん言い出したら、性格的にも瀬川は言うことを聞かない。


「人間は、食べなければ生きられない。そのための備蓄じゃないか。今、出さずしていつ出すんだ?」


翌朝、農水省は全国に「緊急米放出」を指示した。米卸を通じて、とりあえず1ヶ月分の備蓄米を市場に流した。


翌日、棚にはふたたび米袋が並び、多くの人々は安堵の表情を見せた。価格も一時的に大幅に下がり、事態は瀬川大臣の政治決断で解決したかに見えた。


だが、しばらくするとまた米が市場に出回らなくなってきた。それとともに価格も上がる。


どうなっているのだろうか。米が元通りにならない。

何か恐ろしい力が背後にあるのか。


瀬川は、その朝、霞が関の窓から見えた雲の分厚い空を見上げながら、得体のしれない胸騒ぎを感じていた。

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