第17話 父の警告
その日は、少し帰りが遅くなった。
駅から家までの道を歩きながら、遼と話した図書室のことを思い出していた。
図書室に満ちていた、あの柔らかな空気。誰にも見られず、誰にも邪魔されない時間。
けれど今は、その時間さえも、まるで誰かに見透かされていたような気がしてならない。
玄関を開けると、リビングから父の声がした。
「晴。少し話がある」
その声には、妙な静けさがあった。
怒気ではない。でも、あらかじめ感情を排除されたような、そんな冷たさ。
私はゆっくりと上履きを脱ぎ、音を立てないように歩を進める。
リビングのテーブルには、湯気の消えかけた紅茶が置かれていた。
父は、新聞を畳む動作も丁寧すぎるほど静かだった。
「お前、最近、放課後にどこへ行っている?」
その言葉に、胸の奥が微かに震える。
嘘をついても、きっと見透かされる。
だから私は、できる限り淡々と答えた。
「……図書室に行ってる」
「一人か?」
「……違う」
「誰と?」
「……高峰遼」
父の指が、新聞の端をゆっくりと滑った。
それだけなのに、空気がひとつ、変わった気がした。
「高峰、というのは……転校生だったか」
「うん」
「お前が、そういう関係になるとは思わなかった」
そういう関係。
その言い回しに、どこか嫌悪がにじんでいた。
「まだ“そういう関係”じゃない。ただ、少しずつ……話してるだけ」
「そういう関係になる前に、やめておけ」
私は、言葉を飲み込んだ。
でも、その沈黙を、父は許さなかった。
「御堂の名に恥じないように生きろ。誰と付き合い、誰と関わるかも、お前には責任がある」
その言葉は、感情ではなく“命令”のようだった。
私の意思や、感情や、好き嫌いとは無関係に。
「……彼は、何か悪いことをしたの?彼の何を知ってるの?ただ“御堂にふさわしくない”って……それだけで、切り捨てるの?」
「そうだ。“御堂にふさわしくない”——その一点で十分だ。お前が誰と関わるかは、家の価値そのものに直結する」
「……じゃあ私は、御堂っていう名前のために、生きなきゃいけないの?誰と笑って、誰と話して、誰を好きになるかも……全部、“家の価値”で決められるの?……立場で見え方が変わるなら、私は誰の目に合わせて生きればいいの?御堂の人間として?世間の目を意識して?それとも……お父さんの期待に?」
父の表情が、わずかに動いた。
私の中から、ぽつりと零れ落ちた言葉。
それは、図書室の静けさのなかで初めて芽生えた、私自身の“疑問”だった。
沈黙が流れる。
掛け時計の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「お前は……そういうことを考えるようになったのか」
「うん。考えるくらいは、してもいいよね」
自分の声が、思っていたよりも震えていなかったことに、私は驚いた。
「高校生活は限られている。今のうちに、無駄なことに時間を費やすべきではない」
「……遼と話している時間が、無駄だって思ってるの?」
「“遼”と呼ぶ時点で、もう深入りしている」
父のその指摘に、私ははっとした。
名前を、自然に呼んでいた。
それが、自分の中でどれほど彼の存在が大きくなっていたか、改めて気づかされる。
でも、それを否定されて、黙っていたくはなかった。
「私は……誰かとちゃんと話したかった。話して、聞いてもらって、自分のことを知ってもらいたかった」
「それが、あの少年じゃなければいけない理由は何だ?」
「……彼だったから。遼だったから、私はちゃんと、自分の言葉で話せたの。誰かに合わせるんじゃなくて、本当の自分でいられた。嘘をつかずに、心の奥にあることまで……伝えたいって思えたの。そんなの、初めてだった。だから“誰でもいい”わけじゃない。彼じゃなきゃ、私は、ずっと黙ったままだったと思う」
父は、静かに立ち上がった。
「話は終わりだ。今後、もうあの少年と関わることは控えなさい」
そう言って、背を向けた。
私は、机の上に置かれた紅茶を見つめた。
ぬるくなったその液体は、父の言葉のように、温度のない決定を私に告げていた。
でも私は、それを飲もうとは思わなかった。
私は、静かに息を吐いた。
父の背中を見送りながら、胸の奥に、確かな火種のようなものが灯っていた。
反発という言葉では表しきれない、もっと根源的な何か——
私の生き方は、誰かが決めるものじゃない。
静かに、でも確かに。
私は、初めて自分の意思で、それを思った。
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