第12話 君の過去、私の今

夕暮れの光は、図書室の窓から長く差し込み、私たちの机の上を、やわらかな茜色に染めていた。

ページの端にすべる光は、本棚を縫い、木の机に影を落としながら、ゆっくりと傾いてゆく。時間の流れが、ここだけ遅くなったみたいだった。


この場所に来るのは、もう何度目になるんだろう。

最初は偶然だった。だけど、気づけば私は、放課後になると自然とこの図書室へ足が向いていた。

その理由を、ずっと自分の中で言葉にできないまま、今日まできてしまった気がする。


静かな空間。

本の匂いと、かすかに木がきしむ音。

誰にも邪魔されない、私と遼だけの時間。


だけど、今日は少しだけ違っていた。

いつもなら何かしら本を開いているはずの遼が、机の上には何も置かず、ただ窓の外をじっと見つめていた。

その横顔は、どこか遠く、手の届かない場所を見ているようで、私は思わず声をかけた。


「……どうしたの?」


その声は、私自身でも驚くほど小さくて、まるで夢を壊さないようにと願っているかのようだった。

遼は少しだけ肩を揺らして、ゆっくりとこちらを向いた。


「晴ってさ……後悔したこと、ある?」


その問いに、私は一瞬言葉を失った。

後悔。そんなの、たくさんある。でも、あえてひとつに絞るとしたら——


「……あるよ。たくさん。でも、ひとつにするなら……『あのとき、ちゃんと気持ちを言えなかったこと』、かな」


遼は小さく頷いた。その表情には、どこか寂しさがにじんでいて、目の奥はほんの少しだけ、影を帯びていた。


「言えなかったこと、か……」


その言葉を繰り返したあと、彼は机の上で指先を組みながら、ゆっくりと言葉を継いだ。


「俺、前に……付き合ってた子がいたんだ」


その一言に、心臓がどくんと鳴った。

驚いた、というより、どこかで聞きたくなかった話だったのかもしれない。


「……俺、小さい頃からずっと悩んでたことがあったんだ。誰にも言えなくて、ずっと心に溜めてた」


遼はまっすぐ前を見たまま、視線を私に向けることなく、淡々と語り続けた。


「でも、その子には話せると思ったんだ。初めて、“言っても大丈夫かもしれない”って思えた。勇気を出して話したんだ。……本当の自分を、少しだけ見せた気がして、どこかでホッとしてた」


そこまで話して、遼は小さく息を吸い込んだ。

ほんのわずかに、喉が詰まったように見えた。


「なのに……ある日、その子が、俺のことを——俺の秘密を、友達の前で笑い話にしたんだ。“ちょっと変わってる彼氏”みたいに。まるでネタにでもするみたいに……」


そのとき、遼の声がわずかに震えた。


「俺、信じてたんだよ。その子が……俺の弱さも含めて、ちゃんと受け止めてくれるって。でも……結局、俺が見てたのは、ただの“都合のいい幻想”だったのかもしれない」


私は、何も言えなかった。

遼の声は穏やかだったけど、その中にひそむ傷の深さは、言葉以上に伝わってきた。


「そのあと、言い合いになって……“なんでばらすんだよ”って、思わず声を荒げた。……でも、その子は『そんな大げさなこと?』って、笑ったんだ。何もわかってなかった。俺がどれだけの勇気で言ったかなんて……」


遼は唇をぎゅっと噛んだ。


「それから……もう、誰にも本音を言えなくなった。何かを言うたびに、“これもまた裏切られるんじゃないか”って、ずっと頭のどこかで考えちゃうんだ。……それがすごく、苦しい」


私は、胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じた。

遼が笑わなくなった理由。人と一定の距離を保つようになった理由。そのひとつが、今、ここで明かされた気がした。


「……それでも、今日こうして話してくれて、嬉しいよ」


やっとのことで、私は言った。

声が少し震えていたかもしれない。でも、それでも伝えたかった。


「だって、遼が話してくれるってことは……少しは、私のこと、信じてくれてるってことだと思うから」


遼は少し目を伏せてから、ゆっくりと私のほうを見た。


「……全部は言えない。まだ。ごめん」


「ううん。わかってる。聞かないよ、無理には」


私たちはしばらく黙った。

けれど、その沈黙は決して重くなかった。


窓の外では風が木々を揺らし、遠くでチャイムが鳴っているのが微かに聞こえる。

ページをめくる音、誰かが歩く足音。図書室の空気が、優しくふたりを包んでいた。


「……晴って、さ」


「うん?」


「ちゃんと、話を聞いてくれるよね。反応も、ちゃんと優しい」


「それって、褒めてる?」


「もちろん。……正直、この話、誰にもできなかったんだ。でも……晴なら、なんか、ちょっとずつ話してもいいかなって、思えてくる」


私は頬が熱くなるのを感じながら、思わず目をそらした。


「……なんだか、ずるいよね。遼って」


「ずるい?」


「そうやって、ふいに距離を縮めてくるところ」


「……でも、晴がいてくれるから、縮められるんだと思う」


その言葉に、心の奥がふわりと揺れた。


私たちはまだ、互いのすべてを知っているわけじゃない。

でも、たった一つの言葉が、少しずつその距離を縮めてくれる。


——今日、話してくれたこと。

それは、遼にとってまだ癒えていない傷跡だった。

私は今、その傷に無理やり触れることなく、ただ隣にいることを選びたいと思った。


遼の中には、まだ開かれていない扉がある。

そして私は、その前に、そっと立たせてもらっている。


扉が開くのは、もっと先でいい。

今は、こうして少しずつ、心のかけらを渡し合える時間が、何より大切だった。


図書室の外では、夕暮れが静かに降りてきていた。

光はオレンジから深い藍色へと変わり、本棚の隙間をすり抜けて、ふたりの影を長く長く引き伸ばしていた。

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