第5話 名前を知って、それでも遠い人

名前を知っただけで、こんなにも人は、その存在に引き寄せられるのだろうか。


「高峰遼」——その音を覚えてから、私は一日に何度も彼のことを思い出していた。


教室にいても、廊下ですれ違っても、視界の隅に彼の姿を探している自分がいる。けれど、遼はいつも一人だった。


教室の窓際、あるいは図書室の端の席。人と目を合わせることも、会話に加わることもなく、静かにページをめくっている姿だけが印象に残っていく。


誰も彼を知らないようで、彼も誰を知ろうとしない。


それなのに、私の中では、その“静かさ”が、妙に鮮やかに浮かんでいた。


周囲のざわめきとは対照的に、遼の周囲だけが、まるで別の時間が流れているようだった。


「高峰くんって、あんまり話さないよね」


そんな会話が、教室でふと耳に入った。


「一応、同じクラスだけど、声聞いたことほとんどないかも」


女子たちの会話は、軽い噂話のようでいて、どこかその距離感を面白がっているようにも思えた。


——わかる気がする。


話しかけにくい、のではなく、話しかける隙がない。


彼のまとう沈黙は、ただの無口とは違っていた。壁のように、誰も近づけない雰囲気ではなく、むしろ静かに「ここにいていい」と言ってくれるような空気だった。


その日、私は図書室で彼を見かけた。


窓辺に背を向けて座っているその背中は、まるで風景の一部のように馴染んでいた。


遠くから見ているだけなのに、胸が少しだけざわつく。


ページをめくる音、カーテンが揺れる音、それらの静寂のなかに、彼は自然と溶け込んでいた。


誰とも話さない。


けれど、その姿は、何よりも饒舌だった。


私はまだ、彼の名前を覚えたばかり。


でもその名前が、心のどこかに少しずつ、確かな重みを持ち始めていた。


帰り道、昇降口でふと立ち止まると、ちょうど遼が靴を履いているところだった。


顔を合わせるのは三度目。それなのに、まるでそれ以上の時間を過ごしてきたような、奇妙な親しみを感じていた。


「……遼くん」


初めて、声に出して名前を呼んだ。


彼は顔を上げて、私を見た。


その視線が、私の中にまっすぐ差し込んでくる。


「……あ、えっと、特に用事はなかったの。ごめん」


私は慌てて目をそらし、思わず笑ってしまった。


遼は少しだけ目を細めて、それでも何も言わなかった。


でも、その沈黙が、なぜか心地よかった。


何も言葉を交わさなくても、こうしてただ存在を共有するだけで、私は少しだけ安心していた。


だけど、廊下ですれ違うとき、教室で見かけたとき、彼の周囲にはやっぱり、薄い膜のような距離があった。


名前を知って、声をかけて、確かに“知っている”はずなのに。


——それでも、まだ遠い。


その距離が、もどかしくて、愛しくて、少しだけ切なかった。

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