第38話 深窓の令嬢、どうしたらいいだろう。

 風が東から吹いていた。イマが裏庭の菜園へ少しばかりの水をやり、西側の厨房裏口から屋敷内へ戻るとき、その風は季節外れの温かさと、どこか湿った土の匂いを運びながらイマの袖をふくらませた。


「……ごめんなさいね、いつもここから出入りして」

「なんのなんの。いつ来られても、お嬢様に見られて恥ずかしい仕事なんか、しちゃおりませんよ、わたしどもは」


 コック長はいつも笑ってそう言ってくれる。でも、今のイマにはその言葉をまっすぐに受け留める力がなくて、ただ口元でほほ笑み返すことしかできなかった。

 そのとき。


 ――玄関広場で、使用人のだれかが悲鳴を上げたのが、厨房にまで響き渡った。イマは息を呑んだ。


 声がする。争うような、苛立っているような、ふたつの声。コック長が「おい、なんだ?」と言う。イブールに来てから雇った新米のコックが、おろおろとしている。


 イマは、その争っている声のどちらも知っていた。なのでしばらく硬直してから我に返ったとき、動揺しつつもすぐさま玄関広場への扉へ駆け寄った。けれど――


「――ダメです、お嬢様!」

「でも!」

「今はダメです、もう少し、落ち着いてから!」


 長身の、都からイマに着いてきてくれた古株のコックが扉を前に両手を開いてイマを封じた。イマはそのコックにつかみかかるも、当然のごとくびくともしない。

 新米コックが意味不明な言葉をつぶやきながら、調理器具を取り落とした音がイマの背後で響いた。


 そんな中、扉越しでもはっきりと聞こえたのは――


「――あなたこそ、お嬢様をなんだと思ってるんですか……!」


 イマは泣いた。その声と、言葉を聞いて、泣いた。その言葉を向けられた人物がだれなのかもわかって――泣いた。


「――わたくしのことなの、わたくしのことで怒っているの、わたくしのことなの……!」


 イマは長身のコックの体を両手で叩いた。びくともしなくて、でも何度も叩いた。

 コックはイマの頭上でコック長となにかやり取りをした。そしてイマへ言う。


「――ぜったい、渦中へ飛び込んだりしないと約束してくれますか? わたしの手を振りほどかないと、約束できますか?」


 イマは「するから、約束するから、早く!」とその胸を叩いた。そして、抱きかかえられる。


「だめです、レネ様!」

「ヨーズアさん、お願いです、やめてください……!」


 厨房から玄関広場へと続く扉をくぐると――メイドたちの悲鳴と、止めようとする男の使用人の声が混じって、こだましていた。

 空気が金属の刃のように、張り詰めていた。

 床にはレネ氏が倒れていた。ヨーズアがその腕を振り払った直後だったのだろう。レネ氏はすぐに起き上がり、ヨーズアはわずかに息を荒げている。ふたりの間へ即座に男性使用人が数人立ちふさがり、メイドや女性使用人たちは固まっている。


 壁際に寄りかかるように立つラフィニア公女は、細く美しい指先でグローブの縁をいじっていた。まるで芝居を観劇するかのような声音で、そして、ややあきれたようにつぶやく。


「なんとも、おもしろくて――……つまらない争いね」


 そう言って笑うラフィニア公女の声に、イマの涙は止まった。


 ヨーズアが、イマを見た。

 次いでレネも、その視線を追ってイマを見た。


 全員の視線が、イマと、イマを抱き上げている長身のコックに集まっている。けれど、イマは、なにも言えなかった。

 なにが起きたのか、すべてを理解できていない。ただ――ふたりの……イマにとって大事なふたりの、その間に流れる空気が、いつものそれではなかった。


 ――肌を灼くように……鋭く射すように――ぎらついたなにかに、変わっていた。


 レネ氏が、呼吸を整えて姿勢を正し、イマへ向き直り、胸へ手を当てた。


「――申し訳ありません、イマお嬢様。……取り乱して、しまいました」


 レネ氏の服装はいくらか乱れて――口端には、血痕のようなものが見えた。

 ヨーズアは、イマを見ない。イマも、彼へ視線を向けられない。

 なにかを問いたいのに――なにを問えばいいのかわからない。息を吸い込みかけて、言葉が喉につかえる。

 イマを抱き上げるコックの傍へ、イマの側仕えのメイドが来た。いつも無表情の彼女すら、どこか複雑そうな顔をしていて、イマの手に触れた。イマは、その手を握った。


「――わたくしの……ことで……ケンカ、を?」


 ヨーズアは、視線をそらした。少しの沈黙の後、答えたのはレネ氏だった。


「……そんなつもりはありませんでした。ただ……」

「ただ?」


 イマが言葉の先を問うと、レネ氏は臆したように、目を伏せた。そしてただ「ごめんなさい」とつぶやく。


 しん、と静まり返った。片方だけ空いていた玄関の扉から、東風が入ってくる。


 ――ぱちん、と音がなった。

 みなの視線がそちらに向くと、ラフィニア公女が、艶然とほほ笑んで、イマへ向けて言った。


「――まあ、要するに、どちらも、お嬢さんのことで熱くなってたってことよ。――光栄に思っていいんじゃない?」


 皮肉めいたその物言いが、イマの心をさざめかせ、固まらせる。

 レネ氏が、くすぶる怒気を瞳の奥に押し込めたまま、ラフィニア公女へと向き直り口を開きかける。――けれど。


「やめなさい、フランセン君」


 鋭いそのひとことでその言葉を押し留めたのは、他でもない、ヨーズアだった。


 ラフィニア公女はおもしろそうに目を細め、そして「わたくし、この町に来て本当によかったと思っていてよ」とうそぶいた。

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