3話「葬真曲 第三番〈Matins〉」
夜は“幕”が厚すぎた。
路地の角ごとに扉は一瞬だけ輪郭を漏らし、すぐ歌に塗りつぶされる。斬れば街ごと鳴らされる——そう判断して、ユウは鐘楼の風を測りながら、夜明けを待った。
最初の光が運河に差す。風車がひと度だけ止まり、こめかみが、コツと鳴る。
朝の市場は、水を含んだ麦の匂いだった。露台の布天幕が湿り、パン皮の割れる音が乾いている。
子どもらの名札の糸が、ところどころ薄く“にじんで”いた。針目がほどけるのではない。名前だけが布から浮き、輪郭を失いかけている。
運河の面に、風が輪を置く。波紋が重なって、最後に“O”の干渉紋がひとつ、ゆっくり広がる。
ユウは小声で符に触れた。
「本部、聞こえるか。街の歌、構造がある。単独で様子を見る」
『……——こ……える。無理はするな。鐘が合図になる、気をつけ——』
音が砂のように崩れて、切れた。
最初の一打が街を通った。
空気が一瞬だけ薄くなる。胸郭の内側に冷たい窓があいて、呼吸が半歩ずれる。
呼びかけが、解けていく。
「そこの——ええと、あなた」
露店の老婆が、見知った名を思い出そうとして、舌の上で空回りする。
「向こうの、そちら、手伝っておくれ」
名札の“にじみ”が広がり、言葉は人称に置き換わっていく。
ユウは、昨夜に脳裏で引いた導線——拍が軽く跳ねる角——へ動いた。鐘楼の影と運河の反射が交差する地点。
そこで、声が立ち上がった。
柔らかいが、温度がない。
母音の立ち上がりが半拍早い。喉でなく、顎で鳴らしている。
——これは、ルーチェの呼吸じゃない。
薄紗で顔を覆った女が、広場の端に立っていた。喉に“一文字の印”が走る。『V』。
短く息を吸い、街に“反復聖歌(カノン)”を投げる。
鐘は同期器にすぎず、声は運河の鏡面で増幅され、路地の角で折り返され、会衆の胸骨で再生される。
拍が増えるたびに、誰かの名が剥がれ、呼称が空白で上書きされる。
「下がれ」
ユウは、背後で硬直した少年の肩に手を置いた。名札の糸が白濁して、文字が薄い泡になってはじけている。
刃を抜く。音は立てない。
空気に、十字の線を刻む。
——返名・十字。
静寂の窓が一瞬だけ開き、歌の位相が切れる。
少年の喉が震え、失っていた名が戻る。
「……ぼ、僕は——」
言い切る前に、ユウは肩を押し、柱の影へ走らせた。十字は複数にひらけない。切るたび、自分の“名”が少し薄くなる。
『V』が、こちらを見た。薄紗の向こうで、笑みかどうかも分からない形が動く。
歌が水路に染み込み、足音の残響をサンプルし、遅延して返す。ユウが半歩踏み込むと、別の場所で“ユウの半歩”が鳴る。フェイントが、フェイントを増殖させる。
「露台の布を落としてくれ!」
ユウは声を張った。
「運河に石を。波を立てる——鏡を壊す。影を増やせ」
言葉は届く。名は剥がれても、意味は残る。
女将が最初に動いた。パン房の青年が柱から縄を引き、布天幕がばさりと落ちる。魚屋が箱石を担ぎ、子どもたちが小石を投げる。水面が乱れ、鏡が裂け、反射の回路が崩れる。
『V』の声が、ひと息ぶれた。
ユウは間合いを詰める。
「——名を、返す剣」
女が低く言った。歌が落ちる隙間で、言葉だけが届く。
「おまえの、名を」
ユウは短く問う。
薄紗の向こうで、女の喉がわずかに動いた。
「名は、戦で奪い合うもの」
名乗りはない。ならば、戦の型だけが確定する。
鐘楼に上がる螺旋の石段は、風の匂いがした。
踊り場に、ローエンの気配が一瞬だけよぎる。姿は見えない。風が測られている。
「風が教えてくれることが多い」——昨夜の声が、耳に残る。
ユウは足音の残響を踏み越えるように、外縁の桟へ出た。
下は運河。落ちた布天幕が、水を重くしている。氷はないが、鏡ではない。
『V』の声は、鐘の内側から外側へと回折し、桟橋の鉄の継ぎ手で増幅される。
遅延フェイントが、こちらの踏み込みを遅らせ、空振りを誘う。
ユウは一度、呼吸を止めた。
刃を斜めに滑らせ、空気の“残響”だけを斬る。
返名・十字——の片方。斜断。
遅延の枝だけが切れ、歌の本流は残る。
『V』の声が少し低くなり、別の経路を探す。
縦。
ユウはもう一線、縦に断った。
斜断と縦断の二段で、位相差の踏み場を消す。
桟橋が一瞬だけ、静かになる。こめかみが、コツと鳴った。
鐘は斬らない。
ユウは吊り鎖の“結び目”に狙いを移した。
結節は、音の宿り。そこを断てば、鐘は鳴らずに落ちる。
踏み込み——
遅延の“ユウ”が背後で遅れて踏み込む。
刃は、結びの芯だけを裂いた。
鐘が、無音で外れる。
重さは地面で受けられるよう、傾斜を読んである。街の象徴は壊さない。音だけを、終わらせる。
『V』の薄紗が風でめくれ、喉の『V』が露わになった。女は欄干を蹴り、影に溶ける。
追わない。ここで追えば、歌の残響がまだ街に散っている。
代わりに——ユウは鐘の留め具の上、錆びた鉄の間に何かが挟まっているのを見つけた。
封蝋の欠片。『R』の痕。
裏に、薄く書き損じた宛名の最初の文字が残る。「B.」
供給線。誰かに向けた指示書の切れ端。
市場に戻ると、呼びかけが少しずつ“名”へ復旧していた。
「ハンナ」「ヨナス」「ミラ」——三つ名が順に戻り、人々が頷き合う。
だが、少女がひとり、首を振った。
名札の布を握りしめ、唇が形をつくるのに、音が出ない。
ユウは膝を折り、視線を合わせた。
「仮の名でいい。呼んでほしい音を、決めてくれ」
少女は、躊躇って、小さく「リラ」と言った。
「じゃあ、リラ。君の本当の名は、戻る。手続きが要る。……少し、時間をくれ」
ユウは女将に目をやった。女将は強く頷き、台帳を抱える仕草をした。名簿は生きている。
符が震えた。
『……状況、部分収束を確認。よくやった。だが——』
ノイズの奥で、別の鐘の縁が触れる音がした。
『次打〈Lauds〉の兆し。準備が進んでいる。位置は未確定』
「こちらも確認した。切れ端を拾った。宛名はB。——続報を待つ」
『了解。本部は当面、ここに注意を集中させる。無理は——』
音が、また砂になる。
ユウは、聖堂の方を見た。祭壇の前、ルーチェが朝の祈りに備えている。喉元の銀糸が、光を弾いた——ように見えた。
銀糸は『鍵』だ。切れば楽になる。だが今、街全体の位相が崩れる。
今は斬らない。
欄干の石に掌を置き、温度を測る。
風の粒は、まだ少し固い。
運河の面に、また“O”の紋が広がった。
街は、名を半分取り戻し、半分を失ったまま、朝の拍を並べていく。
ローエン・カデンツの姿は、どこにもない。だが、風は測られている。
ユウは拾った封蝋を布に包み、腰の袋へ入れた。
こめかみが、最後にコツと鳴る。
——次の鐘が鳴る前に、やるべきことがある。
(つづく)
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