27話「報せの朝」


 夜はほどけ、港に薄い金の線が差しはじめた。

 ヴァルハストの街は潮の匂いを胸いっぱいに吸い込み、白い壁は朝の色へとゆっくり還る。結界灯はひとつずつ明滅を止め、本部の塔影が石畳の上で静かに伸びていく。


 ユウは回廊の欄干に肘を置き、吸い込むように冷たい空気を肺に入れた。胸の花びらが呼吸のたびにわずかに上下する。遠く、船笛が短く鳴った。


 「眠れた?」

 背後でクロエの声。

 「少し」

 「それなら上出来」

 クロエは薄布を肩から落とし、欄干にもたれて海を見た。頬にまだ疲れの影はあるが、昨夜の硬さはほどけている。


 石段を軽い足取りで上がってきたのは、マニックだった。手には紙袋。

 「焼きたて拾ってきました。港の露店、開くの早いんで」

 セラフィムも続く。「塩気のやつ、私の」

 「はいはい」

 リーシャが笑い、袋を受け取る。「皆で分けよ」


 ブランドは一歩遅れて現れ、ユウを一瞥してから、昨夜と同じ、言葉にならない頷きをひとつ。ユウも頷き返す。互いの間に、要らないものはもう置かない。


 「今日はのんびり――」

 クロエが言いかけたとき、遠くの塔から細い鐘が一度だけ鳴った。昼夜の交替でも、正刻の合図でもない、短い報せの響き。


 「……上層の呼集音だ」

 ブランドの声がわずかに低くなる。

 次の瞬間、階段の下から駆け足。伝令の少年が息を切らし、敬礼した。

 「クロエ隊長、至急。第七区画、収容棟――総司令、直召です」


 空気が、薄くなった。



 第七区画は夜の温度をまだ残していた。

 石と鋼で組まれた廊下。封印円の青が脈を打つように床を撫で、角ごとに兵の影。誰も口を開かない。音は靴底と、鍵の触れ合う微かな金属音だけ。


 最奥。重い扉の前、ガルド・ヴァン=ヘリオスがいた。黒い軍服が朝の光を吸い、目だけが静かに燃えている。

 「来たか」

 「はい」クロエが一歩前に出る。

 ガルドは扉の覗き窓へ顎をわずかに動かし、短く言った。

 「――収容対象、死亡。詳細は今から確認する。口外は禁ずる」


 扉が開く。冷たい空気が頬を撫でた。

 中は簡素だ。椅子、鎖、封印の線。

 椅子の上で、グレイブは静止していた。瞳の焦点はどこにも合っていない。口元はわずかに開き、乾いた。

 胸は動かない。

 床に小さく落ちた赤は、既に黒へ沈みかけている。


 リーシャが息を飲む。

 セラフィムの唇が固く結ばれる。

 マニックは一歩だけ前に出て、靴先を揃えたまま立ち尽くした。

 ユウは何も言わず、ただ目を閉じた。昨夜、海霧の向こうで一瞬走った赤い線――あれが気のせいではなかったと、遅れて理解する。


 「……警報は?」ブランド。

 「鳴らない設計だ」ガルドは短く答える。「この区画は“音を外に出さない”。代わりに、当直が伝令となる」


 術士が膝をつき、術式跡を探った。

 「封印は破られていません。……ただ、鍵記録の刻印に一拍の欠落」

 「合鍵か、同等の権限」セラフィムが呟く。

 ガルドの横顔は動かない。「内部の可能性は常にある。だが、必ずしも“こちら側”とは限らない」


 ユウはグレイブの手元へ視線を落とした。縛めの痕は新しい。抵抗の形跡は少ない。

 (……終わりを、選ばれたのか。選ばされたのか)


 指先に、微かな違和感。

 椅子の肘掛け、金具の影に、細い擦過痕が走っている。

 斜めの小さな線が二度、重なって――そこで、途切れていた。


 「何か分かる?」リーシャが囁く。

 ユウは首を横に振る。「まだ」


 ガルドが振り返る。

 「諸君、ここで見たことは外に出すな。報告は私が引き受ける。君たちは休め。……そして、警戒は緩めるな」


 クロエが目を細める。「司令、何か掴んでいるのですか」

 ガルドは答えない。代わりに、わずかに顎を引いた。

 「君たちの馬車が早すぎたことは、あとで話す」


 セラフィムの眉がぴくりと動く。

 「やっぱり、早すぎた、よね」

 マニックがすぐに言葉を足す。「本部、優秀だから。……先に送ってたんだと、そう思ってましたけど」


 「今は憶測を増やすな」クロエが静かに切った。

 「休もう。考えるのは、動ける頭になってから」


 ガルドが扉を閉じる。封印円の青が再び規則正しく脈を打ち始めた。



 回廊に出ると、朝はもう完全に街を満たしていた。

 兵たちの掛け声、パン窯の白い煙、港から届く木箱の軋み。どれもいつもの音で、どれもいつも通りに平和だ。


 「……私、嫌になるの。こういう時の“いつも通り”って」

 セラフィムが吐き出す。

 ブランドが肩を竦めた。「いつも通りがあればこそ、異常が目立つ。目立たせておくのは、悪いことじゃない」

 「格好つけた」


 リーシャがユウの横に並ぶ。

「ねえ」

「ん」

「昨夜のお願い、覚えてる。……だから、何も聞かない。けど」

「けど?」

「困ったら、声を出して」

ユウは短く笑って、頷いた。「出す」


 クロエが皆を振り返る。

 「今日の予定はそのまま。街を歩いて、店と人の顔を覚える。午後は本部で簡単な報告会。夜は……甘いもの」

 「やった」セラフィムが露骨に顔を明るくした。

 「武具店も」マニック。

 「診療所は私が」リーシャ。

 「港で風」ブランド。


 ユウは最後尾で、白い壁に指を触れた。石は冷たく、確かだ。

 (――この城は、外よりも静かだ。静かすぎる)



 午前。

 ヴァルハストの通りは、光の角度で表情が変わる。花屋の露台には潮風に強い花々が並び、弦楽器の工房からは新しい弦を張る乾いた音。焼き菓子の屋台はバターの匂いで角を曲がる前から人を引き寄せる。


 「これ」クロエが指したのは、蜂蜜を絡めた薄焼き。「甘いのが嫌いでないなら」

 セラフィムは即答で二枚。「嫌いなわけない」

 マニックは隣の古着屋の軍用コートに視線を吸い込まれている。「この裁ち……良」

 リーシャは診療所の看板の古い塗り直し跡を見つめ、「落ち着く匂い」と呟いた。

 ブランドは港縁で目を細め、風を胸いっぱいに入れる。怒りも悔いも、潮の重さで少し薄まる。


 ユウは足を止め、角の陰で立ち話をする兵士二人の袖章を目で追った。

 (“O”の刻印……観測局の臨時章)

 視線に気づかれぬよう、すぐに目を逸らす。

 (――やっぱり、いる)


 クロエがさりげなくユウの肩へ歩幅を合わせる。

 「考え過ぎないで」

 「考えないで動くと、もっと悪い」

 「じゃあ、半分だけ考える」

 ユウはわずかに笑った。「半分」



 午後。本部・小会議室。

 簡素な報告会は予定通り淡々と進み、ガルドは終始余計な言葉を挟まない。

 最後に紙束が配られた。

 「今後、街での行動に関してはこの通信器を携帯しろ。更新式だ。……そして、勝手に動くな。必ず“見える形”で動け」

 「見える形」セラフィムが繰り返す。

 「見られて困ることをするな、という意味だ」ガルドは薄く口端を動かす。「君たちを信頼する。――ゆえに、私の背中も預ける」


 解散の合図。

 退出しかけたユウを、ガルドが呼び止めた。

 「桜の痣の少年」

 ユウは振り向く。

 「君のお願いは、守る。だが同時に、私のお願いも聞け。――ひとつだけだ。生きて報告に来い」

 短く、確かな言葉。

 ユウは黙って頷いた。



 宵。

 石壁は再び灯りに温められ、港の影は紫に沈む。

 皆で買った焼き菓子は、温いまま半分残っている。甘さは、夜のほうが深く舌に残った。


 「明日も案内して」リュナが言う。

 「もちろん」クロエが頷く。

 セラフィムは串の先を口で軽く噛み、「これ、三本いけた」と小さく勝ち誇る。

 ブランドは「四本だ」と返し、マニックは「じゃあ私は五本」と真顔で重ねて、全員が笑った。


 ユウは笑いながらも、ふと視線を上げる。

 塔の上、見張り橋の端。

 そこに、誰かがいた。

 黒いコート、白い手袋。顔は見えない。

 こちらを見ていた。――そう、思った。

 瞬きをひとつした瞬間、その影はもういなかった。


 (……やっぱり、見られている)


 胸の花びらが、呼吸より少し速く脈を打つ。



 同じ頃、本部の最上層、窓のない部屋。

 古びた書架の影に、ふたりの影が立つ。白い手袋が封蝋を割り、短い紙片が卓に置かれた。


 ――収容対象 処理完了

 ――観測対象(桜) 本部内確保

 ――段階移行 待機

 ――合図 「歌」


 「早い」低い声。

 「遅いくらいだ」別の声。

 紙片は炎にかざされ、黒い灰になって消える。

 ふたりの影も、灯の“間”へ溶けた。



 それでも――この夜は、まだ温かい。


 ユウは皆と並んで歩く。

 石畳の凹凸が靴底を通じて確かに伝わる。

 潮の匂い。焼き菓子の甘さ。仲間の笑い声。

 ここにあるものは、紛れもなく“生”の側にある。


 (失ったものは、戻らない。けれど)

 (還すことは、できる)


 ユウは胸に手を当てる。

 花びらは静かに、強く応えた。


 塔の上で、夜鳥が一声だけ鳴く。

 港の遠くで、笛がひとつだけ、妙な調子で――かすかに、流れた。


 ユウは眉をひそめる。

 すぐに、その音は風に溶けた。


 「どうかした?」クロエ。

 「いや」ユウは首を横に振る。「――なんでもない」

 今は、言わない。

 今は、守る。


 石壁に寄りかかり、皆で空を見上げる。

 明日の朝、また歩く。

 その先に何が待っていようと、前へ。


(第一部 了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る